『幕末の武家』柴田宵曲編 青蛙選書
1965年。同選書の「旧事諮問録」の姉妹篇とも見れば見らるるものである
。「江戸会誌」「旧幕府」「同方会誌」など明治二十〜三十年代に出た雑誌の記事を集めたもの。
『新日本古典文学大系52』山田俊雄
「庭訓往来」。別の人が担当する「句双紙」と併録。「実語教童子教諺解」も収録。
『日本の語い』見坊豪紀・芳賀綏 1958年初版
借りてみたら何と「中学生の国語全書3」だった。話しかけるやうな文章なのでかへって読みにくい。
前書きから。
私たち二人は、この本をまとめるために、いろいろ相談をしました。そして、「おじさん」が二郎君と弘君という二人の中学生に話をしてきかせる、その話を記録してみなさんに読んでもらう、というやりかたを考えました。
『辞書をつくる』見坊豪紀 玉川選書 1976年
京助先生のお名前を借りて世に行なわれている国語辞書は十指に余る。その多くは、先生のお人柄につけ入って単にお名前を利用しようとしたに過ぎないものである。(p139)
ずいぶんと一方的で恩師に甘い書きやうだ。
続きを読む『ことばさまざまな出会い』見坊豪紀 三省堂 1983年
「〜すべき」は戦後の新しい言い方だと思います。
、一九五九年ごろに初めて見ました
とのこと。(p19)
「万華鏡」は昔は「バンカキョウ」だった(p48)
「北海道ことば見てある記」1969年。写真入りで当時の言葉を紹介。(p54)
「アメリカの邦字新聞を読む」1964年。これも写真入り。(p68〜)
存は「考へる」「知ってゐる」でゾン。「(物が)ある」でソン。保存も明治の初めはホウソン
。(p194)
「いまやおそし」は「いまや。おそし」ではないか。つまり「いま来るか。遅いぞ」ではないか、と言ふ。(p195)
旧華族の言葉。「あなた」が「このかた」。「すみません」「ありがたう」は「恐れ入ります」。(p197)
岩淵悦太郎の話・嘆き(1969年)。いまの若い人が「そばを食べる」というのは、中華そばのこと。中華そばがはやったために、いままでのそばを「日本そば」と呼ばなければならない
。(p205)
『ことばの遊び学』見坊豪紀 PHP研究所 1980年
第一章で子供時代の思ひ出。特に満洲の話が面白い。(p9〜)
言葉の正誤を判定する基準。塚原鉄雄の提案を要約して紹介。その日本語が1,あるか2,正しいか3,適当かと三段階に見てゆく。[具体例が少ないのでやや分りにくい](p32〜)
- あるか(例、翻訳の「夜は若かった」。1で不合格だがよく分る、可能。)
- 1,実際にあるか(同じ例が他にもあるか)
- 2,日本語としてあり得るか
- 正しいか
- 1,誤りか
- 2,正確か
- 適当か(例、敬語の使ひ方。文法的に正しくても、その場面に相応しくなければだめ)
- 1,妥当か
- 2,適切か
「波紋を投げる」は「湯を沸かす」の同類と考へると誤りでないとも考へられる、と言ふ。(p111)
「もしもし」が変ってしまった、呼び掛けの言葉のはずなのに受け手が使ふやうになってしまった、とのこと。(p122)
「鴨なんばん」の「なんばん」は「南蛮」ではない。「なんば」は難波(ねぎの名産地)。(p138)
「東洋の魔女」はソ連では「超人」のやうないい意味で使ってゐた。(p139)
オールコック『大君の都』にある話。江戸の通訳は、二百年前の古いオランダ語しか知らず、ヒュースケンの現代オランダ語を文法的にでたらめだと非難した。(p144)
「祿」が旧字。(p73)