『広益俗説弁続編』(平凡社東洋文庫)
2005年初版。
取上げてゐる俗説がそれほど興味の持てないものだったので、あまり面白く感じなかった。
仏を信ずる者を斬に、腕すくんでうつことあたはず、鉄砲にてうつにもあたらずといふは、仏法にはあらず、幻術なり。
(p68)
「娯奇わ逝けねェよ」とか買い手も剃れ鳴りに通時るかも
「言葉はコミュニケイションの手段である」と云ふ言語觀の人が、言葉の誤用について然々述べるのは如何云ふ事なのだらう。言葉がコミュニケイションの手段であるなら、「傳れば正しい」「傳らなければ謬り」と云ふ二分化以外で、國語の正しさを論ずる事は出來なくなる。さう云ふ言語觀を持つてゐる人が誤用を直せとか正せとか言つたりするのは矛盾。
それへの反応。
例えば拘るのとらえ方云々は人次第でしょうけど , 今日を強と書いたり Windows を wundous と書いたりするのはあからさまな間違いでしょう , そして誤りは感染します ,だからその愚かな情報が感染するのがいやなので , 言葉の価値観云々じゃあねェよ ,
愚かな
とかいやなので
とかは、どう見ても価値観です。本当にryとか言ってみたい。
これは屁理窟だけども、強
が今日
の誤記で、wundous
がWindows
の誤記だと分るのだから、曲りなりにもコミュニケイション
は成立ってゐるとも言へる。だから誤記についてその愚かな情報が感染するのがいや
といふのは、「傳れば正しい」「傳らなければ謬り」と云ふ二分化以外
の基準によらければ(本当は)言へないことだらう。