斎藤緑雨「ザマ見やがれと当人しるす」

抜萃。

緑雨の随筆を紹介した序に、その雑文をも一つ挙げて置きたい。博文舘の看板雑誌『太陽』では、創刊当時、諸家の寄稿の初めに、その人の小伝をも附することにしていたのであるが、その文を書けとの注文に代うるに、緑雨は次のような短文を以てした。おおよそ人を食った文も、これほどなのはないのではないかと思われる。

略歴を掲げよとや。僕の族籍年齢が知りたくば、区役所にて調べたまへ。番地が分らずば、派出所にて尋ねたまへ。正直正太夫と申す別号あれども、これは証文の用に立たず。戒名はまだ附かねど、寺は禅宗なり。幼より聡明穎悟は言ふ迄もなし。右の手に箸持つ事をつひぞ忘れぬにても察したまへ。全体文豪といふは、むかしから性の知れぬ者なり、彼の沙翁を看たまへ、巣林子を看たまへ、今以て性が知れぬにあらずや。海とも山とも性の知れぬ点に於ては、僕もたしかに文豪なり。名刺の肩に大日本帝国文豪と書入れても、諸君は決して之を拒むの権利を有せざるべし。ザマ見やがれと当人しるす

編輯部の要求することには、一言半句も答えず、勝手な熱を吐きなから、然も緑雨の自己の面目を、その裡に躍如たらしめている。これは天地間の奇文中の奇文といってもよいものかと思うのである。(森銑三『史伝閑歩』p229)