白川静は漢字制限批判者である!(永江某のちゃんちゃらをかしい杜撰な知ったかぶりの白川評について)

まだ書き途中。
この前メモした時はうっかり読み流してしまったが。

『字書を作る』の書評部分。

永江

そう。担当者は猛省すべき。今からでも遅くはないから、増刷分からはちゃんと明記すべきだよね。[注、初出一覧が無いなど編集が杜撰であることの指摘]

それはそれとして、白川静のこの本は文字を固定したものと考えないところが新鮮です。文字は時代によって変化し続けていると著者はいう。私たちも、その変化の流れの一部分に立っているにすぎない。

これを読みながら連想したのはワープロの文字数が制限されている、文字数が少ない、と一部の作家が騒ぎ出したこと。文字数に制限があるからワープロ文化は日本語を破壊すると・・・。彼らは日本語の文字を固定されたものとしてしか考えられないのですね。

でも白川静は違う。『字統』にはこうあります。「本書の収録字 この書にはすべて六八〇〇余字を収めた。字数としては、一般の中字典が約一万字前後を収めるのに対して、これよりやや少ないが、常用漢字の一九四五字にくらべると、約三・五倍に近い字数である」(p140)。中国の文献には、多くの字が用いられているように考えられますが、『論語』には一三五五字だし、『四書』には二三一七字です。そういう話から考えれば六八〇〇字あれば十分なんだ、ということですね。いつも漢字は無限にあってそれ全部がないとコンピュータに納まりきらないから、パソコンで漢字を扱うのはそもそも無理なんだ、といわれがちですが、それは固定観念でしかない。

斎藤

森鴎外の鴎の旧字がでないとか、文句を言う人は多いね。永江さんの話にあったように六千年以上という、気が遠くなるような時間をへた文字の変遷を追う作業をやってきた人からみたら、たしかにワープロ文化は日本語を破壊するなんて言い出すことはちゃんちゃらおかしいかも。

[略]
永江

言葉の由来とか漢字の由来をしったかぶりをして言う前に、白川さんの字書を引いて甲骨文字までさかのぼって考えろといいたいですね。

この永江朗とかいふ名前を聞いたことも無い(と言ふのはウソだけど)男は、白川氏の『字書を作る』のいったいどこを読んでこんなことを言ったのだらう。『字書を作る』所収の下のやうな文をどう読んだのか。

常用漢字は、学校教育などで制限的に教えられているものであるが、社会生活のなかでは指定外の字が実際に多く用いられている。人名・地名はもとより、専門書や古典・文献資料の世界に入れば、この種の制限は何の意味をももちうるものではない。それは最低限の知識である。それを最低限の知識として教えるのは別としても、すべてをこの最低限の範囲に限定すべきものではない。本書に収める約六八○○字の知識は、必要字の最低限度と考えてよいものであろうと思う。(白川静著作集 第12巻 p269、「字統の編集について」)

敗戦の翌年(一九四六)の十一月に当用漢字表、その二年後(一九四八)二月に当用漢字音訓表・当用漢字別表(教育漢字表)、翌年(一九四九)四月に当用漢字字体表が、それぞれ法令としてではなく、内閣告示として公布された。学校教育と公文書を主たる対象とするものであったが、忽ちのうちに新聞・雑誌をはじめ、あらゆる印刷物がこれに追随して、漢字の字形は一瞬にして外科的整形を受けた。漢字が生れて以来、どのような時代にも、このように容易に、このように無原則に、このように徹底的に、全面的な変改を受けたことはない。はじめ当座の使用を意味した「当用」は、やがて「当為」の意とされ、いまは「常用」と名を改めている。この誤り多い字形は、これに服従しない限り、学業を履修して社会に出ることも、社会に出て種々の活動に従うことも、不可能となっている。誤りを正当として生きなければならぬという時代を、私は恥ずべきことだと思う。

(白川静著作集 第12巻 p257、「字統の編集について」。イワマン日記平成十五年十二月八日 正字とは何かから孫引き)

白川氏は直接にワープロ文化は日本語を破壊すると言ってゐるわけではないが、漢字制限を厳しく批判してゐる。その文章のどこをどう読んだら、あんな感想に結びつくのか。超人的な連想能力だと思ふ。

[略]私が新村先生にお会いしたとき、先生はすでに七十をいくらか過ぎて居られた。「当用漢字音訓表」「当用漢字字体表」「現代仮名づかいの要領」は、すでに昭和二十一年に公表され、新聞・雑誌をはじめ、ほとんどの刊行物がその規制下におかれた。それは占領政策の一環として認識され、抵抗し批判することを許されないものと考えられていたようである。そういう状勢のもとで、新村先生の[辞苑]増修版が出た。その書は、今私の手もとにないが、その序文は、いまの[広辞苑]にも残されている。心ある方は、是非一読してほしいと思う。

私はその書が出たとき、まずその序を読んだ。そして思わず失笑した。先生はその長い文章のなかで、「現代仮名づかい」にふれる用語を、一つも使われなかった。「想い起こす」は「想起する」、「かなわぬ」は「能くせざる」、「なお定まらぬ」は「未だ定まらぬ」、「思う」は「信ずる」という類である。徹底的にその「現代仮名づかい」を拒否されたのである。あの温容春の如き人が、これほど不屈の精神の持ち主であることに、私は爽やかな感動を禁じえなかったのである。

(白川静著作集 第12巻 p386、「字通に寄せる」)