「支那」について(内田百間)

『新輯内田百間全集』第十九巻「ひよどり會」(p442)。

それよりも、支那料理と云つてはいけない事になつてゐる様で、猫がフンし箱の砂箱の外にフンしてはいけない事になつてゐるのと同じだと思はなければいけない事になつてゐる様である。
敗戰後さう云ふ事になつたのは、支那と云ふ字面が向うの人におもしろくないからださうだと云ふのだから、それならば人のきらふものを強ひて振り廻すのはよくない。やめたらよからう。しかしその代りに使へと云ふ中國だの中華だのは、もともと向うの人が自國を褒めたたへる誇稱であつて、我我が日本の事を「とよあしはらの、みづほのくに」、更にくはしく長たらしいのを構はないなら 豊葦原之千秋長五百秋水穗國と云ふのと變らない。自分で云ふのは勝手だが、よその國からもさう云はせるのはどうかと思ふけれど、戰爭に負けたのだから止むを得ないと云ふなら即ち止むを得ない。
ただ少少困る事がある。私など備前岡山の生れの者は、自分達は中國生れだと思つてゐる。日本地理の區わけで狹義には山陽道、廣く解すれば山陽道山陰道を合はせた畿内から西の、中國山脈を背骨にして細長く伸びた地域を中國だと思つてゐる。その字義が敗戰後、をかしくなつた事になつた實例に時時ぶつかる。