ろくに調べもせずに旧字を弁護・支持してみる(2)

追記
タイトルをつけた(10月14日)。この項は「黒歴史」。誰かさん(あるかさん)の罠(?)にはまって醜態をさらした。(5)(4)を参照。(以上追記。)

こちらもまだ調べてないところもあるので途中経過といふ感じなので(「いつでも途中経過」とか言はれさうだ)、大したコメントは出来ないけども。

おそらく「鳩笛雑記帳」さんは〈旧字〉に慣れてしまっているのでしょう。だから〈旧字〉も〈新字〉も同じように読め、もう普通の〈旧字〉に親しんでない人間が〈旧字〉に接したときに感じる違和感も理解できないのかもしれません。

といふ点では、お互ひにこれは、おもしろいと思いながらも、一方ではなるほどなあ、と思ふまでのことで議論にはならないとしても、この前書いた文体が古いからとか昔の版のまま復刻された本だから活字が摩耗してるとかが「頭に入りにくい」ことに全く関係ないのか疑問に思ふのですが。

 しかし、そこまで〈旧字〉に慣れることが良いことだと単純に言えるのかどうかもわかりません。
 というのは、塚本邦雄など〈正字体〉〈旧字〉にこだわる詩人・作家は何人かいますが、彼らがなぜ〈正字体〉で書くかという理由の一つは、まさに〈正字体〉が与える違和感を利用して、文を透明で意味内容を伝えるだけのものにするのを拒否し、内容より文そのものに注目させることにあるとも思われるからです。〈正字体〉も〈新字〉と同じように透明なものとして読めてしまうということは、こういった表現が理解できなくなるということにもつながります。

塚本邦雄のことは名前を知ってる程度ですが、そんなバカなことを考へる人だったんでせうか。その「表現」なるものは正字体〉が与える違和感を感じる読者だけの勝手な幻想なんぢゃないでせうか。個人的には、まさに〈正字体〉が与える違和感を利用してだなんて、そんなバカバカしい「表現」は「理解」したいとも思ひません。ただ、旧字の方が(比較的)きれいだといふことならば、毎度感じる(「理解」できる)ことですが。それと、文を透明で意味内容を伝えるだけのものにするのを拒否し、内容より文そのものに注目させることにあるといふのは「旧字派」(仮称)だけのことではないでせう。

以下、最後の現在の時点でぼくの意見について切れ切れに。

やはり一般的には「新字」でいいんじゃないでしょうか。通字的に使われる字にまで系統にこだわらなければならない必然性というのがやはりわかりません。それよりも「書きやすい文字」であることのほうが、やはり現時点では重要のような気がします。

どうやら、便利な略字を拒否することへの批判・異論のやうですが、「旧字派」(仮称)の前提は、「印刷の字体と手書きの字体とは一致しなくていい」つまり「略字は略字として認める」といふことです(と、勝手に思ってゐます)。手書きにおいては書きやすい略字活用なので、これは誰か別の人への異論・批判です。

正字体〉はある程度の知識人が、特別な場合に使うものとして存在すればいいし、文字の系統なんて研究者が扱うものであり、知識としてあればいいんじゃないでしょうか。

そんな「専門的な知識」と呼べるやうなものは思ひつかないのですが。前に挙げた例をもう一度出しますが、

  • 違ふ系統の字をいっしょくたにしてしまった例
    • 學(学)、覺(覚)と營(営)、榮(栄)、螢(蛍)、勞(労)
    • 辯(弁)と辨(弁)と瓣(弁)
  • 体系を崩してしまった例
    • 缺(欠)と決、訣などとの体系
    • 轉(転)、傳(伝)と専
    • 賣(売)と買
    • 假(仮)と暇

少なくともこれらは特に「研究者」向けと限るものとはとても思へませんが。火偏・三水・人偏・草冠・竹冠といった漢字の部首を見て、「ああ、火に関係ある字だな」「なるほど、人に関係あるな」とか納得するのはそれなりに一般的・日常的なことだと思ふんですがどうでせう。少なくとも私の場合は文字の系統などと言ってもその程度に日常的(非専門家的)な平凡なことなんですが。

一般的な場面では字とは内容が伝わりさえすればいいものでしょう。だいたい江戸期まで、あるいは中国で使われていた通字というのは、そんなに正統なものなんでしょうか? 文字なんて一般レベルでは正統性がどうということよりも、実用的な使いやすさが優先されてきたものじゃないんでしょうか。

「正統性」云々はよく知らないので何とも言へませんが、内容が伝わりさえすればといふ最低条件が満たされた上に、系統がはっきりしてゐるのも「悪くない」と言へるでせう。実用的な使いやすさつまり略字については上に述べた通り。

少なくとも、一般的には「新字」にしておいたほうが、文章表現の一つとして〈正字体〉で書くという手が使えるだけ、日本語の表現の幅も広がるというものではないでしょうか。

一般的には「新字」にしておく現状のせいで、旧字で書くと「内容が無いくせに、見た目だけで目立たうとしてる」などと非難されて、実質上正字体〉で書くという手が使えないことが往々にしてあるらしいのですが御存じでせうか。


まとめとして、arukaさんの書いた文を活用(悪用?)して正字(旧字)を弁護してみる。
書く場合についてはワープロ・パソコンの普及によって文字を書かなくても打ち出せるという時代になった現在では正字体〉の欠点の内、少なくとも書きにくいという欠点は問題にならない。手書きを除き一般的には正字(旧字)でいいんじゃないでしょうか。手書きについては略字活用すればいい。(手書きではない)印刷の字にまで系統性よりも「書きやすい文字」であることのほうこだわらなければならない必然性というのがやはりわかりません
研究者が扱うやうな、ある程度の知識人が、特別な場合に使うやうな字(そんな難しい字があるかどうか知らないが)は別としても、一般人の知識として、(新字に比べれば)正しい系統の知識があっていいんじゃないでしょうか。もちろん系統に興味が無くて構はない。正字を使ふからといって系統を知ることを強制されるわけではなく、知った(意識した)時に納得できるといふだけのこと。

それと、

ブログ行ってきましたがコメントを書き込みかたがわからなかったので、ここに書き込みます。(不慣れですいません)

「コメント」機能の掲示板みたいな場所でのやりとりが面倒なので書き込めない設定にしてゐます。こちらこそすみません。