山田俊雄『詞苑間歩』下 三省堂

  • 山本有三の振り仮名廃止論についてのコメント。(p7)

しかし、振り仮名の既に付いてしまってゐるものは、もし、その文章を客観的に読まうといふなら、勝手に振り仮名を余計ものとして捨てるわけには行くまい。つまり、振り仮名を当てにして、それを表記の一部に必要として書いたらしいものは、そのままそっくり、手をつけないで、全体として、子孫に伝承するのが正しからうと思ふ。つまり、過去のものを専ら読む立場に一方的に立つとき、原本はいつも原本そのままであるべきものと考へる。押し当てで、此処は残す、彼処は捨てるといふのは不合理である。

[略]、そのやうな文字遣ひが振り仮名と共にかつて在ったといふ事実は、歴史上の事実として遺った。それは、森鴎外の『渋江抽齋』などの用字とともに、私どもの先人の仕業として、たしかに、私どもの承け継いだ財産である。それに倣ふ必要はないが、それを湮滅する資格も権限もない。ただ、客観的に見る義務はいつまでもあるであらう。

  • トランプの「ジャック」は従者・側近(p18)
  • 文庫本などでの新表記への改変について(p31)。

新しい世代の人々に多く読んで貰ひたくてさうするのだと言ふのが、その理由であるやうに言ってゐるが、未来の方へ承け継がれる筈の文化のもとの姿が、言語の場合だけは、考古史料や美術品とちがって、ひどく人為的に破壊を加へて若い世代に渡されるのは、何とも不可解である。せめて、もとのままのものを必ず並べて出すのが文化といふものではないか、と私は思ふ。

  • 豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』の或る場面で「厠」と訳してあることについて、他に適切な訳語をなかなか思ひつかないと言ふ。「厠」は、文語的な表現として、文脈の特殊性を超越するニュートラルな語と感ずる老人語の域も既につき抜けてゐるやうな感じがするとのこと(p45)。
  • 河島英昭訳『薔薇の名前』の訳文について。「流れに棹さす」の使ひ方を間違へてはゐるものの、余程洗練された日本語の使ひ手であらう訳語の選び方、用ゐ方の苦労には敬意を表する。とのこと(p66)。
  • 江戸中期の辞書を見ると、木犀が古くは「黄もくせい」「白もくせい」の二種に分けられたことを知ることができる(p71)。
  • 齋木一馬『古記録の研究』(著作集第三巻)
  • 「ミーちゃんハーちゃん」は䖝雨の『あま蛙』に「美イちゃん春ちゃん」とあるのにまで溯れる(p105)。
  • 「円匙」(シャベル)は「正しい」音はエンシだが、軍隊用語としてはエンピであると述べた文で鴎外のことにもふれて言ふ。

森鴎外が、漢字音の日本的なゆがみを、知ってか識らでか、世人と同じく所有してゐたことは、たとへば、『雁』といふ作品の中に「馳騁」[ちへい]といふ語を用ゐてゐる一事を挙げるだけで十分であらう。太宰春臺は[略]チテイとすべきことを『倭読要領』で述べた。尤も日本漢字音の歴史を重んじるなら、太宰春臺とて井蛙の見のそしりを受けかねないのだが。(p129)

  • 木下杢太郎「二つの全集を中心に」の中にある「昆虫に譬ふれば蜘蛛」といふ一句は現代のTVのクイズなどでは簡単に誤りと決めつけられるであらうこと。

学校教育の普及の故か、賞金稼ぎ[TVのクイズ]の流行のせゐか、普通語と専門語との境界を判然とさせぬままに、せいぜい初等教育の便宜上の、教授内容として限定してある語の用法のみによって、表面だけの、さかしらの知識の藪の中へ、人々を導くものが、世の中に今、力を振ひつつあるやうである。(p132)

  • 著者の知人「西洋古典学者のI氏」の説。藤村操の「ホレーショの哲学〜」について、ホレーショとはホラティウス(ローマの詩人・思想家)のことではあるまいか、と言ふ。(p140〜)
  • 「ふさぎの虫」は「くさぎの虫」(疳の薬)の口合(地口)だったのではないか、といふ疑ひ(p146)。
  • 「(お)でこ」は「でこうべ(出頭)」が変ったのではないか、とする(p150)。
  • 「のっぺらぼう」は元は「のっぺらうに〜」(副詞、擬態語)。(p156)
  • 支那伝説集』を読んで行くと、杢太郎の操る日本語の、穏やかな品の良さ、場面に応じた用語・用字のえらび方の、無理のないしなやかさに興が湧いてくる。(p195)
  • 正宗白鳥『牛部屋の臭ひ』の感想。白鳥の用字・用語の自然で、無造作で、しかも日本語のゆかしさを保つものは、他にも少なくないのだが、(p230)
  • 「山高きが故に貴とからず」は本来は後に「樹有るを以て貴としとす」続く、『実語教』にある句で、その形で見ればきはめて理の通った命題であったのである。そこには日常生活における、山の有用性を没却することを戒める精神がある。とのこと(p260)。

下の句を省略する云ひ方が独立すると、その残ったところを全体と誤認してか、平凡な教訓として、勝手に補完し、したり顔をするのが辞書編集者の常套である。

  • 「〜を培ふ」よりは「〜培ふ」の方が雅馴であるとのこと。元が「水(を)飼ふ」「秣(を)飼ふ」と並んだ「〜に土(を)かふ」だったので。(p308)
  • 本題とはあまり関係ないが面白い行り。戦争のつづいてゐた頃、たしか私が、旧制高校一年生になったばかりの晩春、荒木貞夫といふ軍人が文部大臣に化けて学校視察に現はれたことがあって、(p309)
  • 「やぶく」は「やぶる」「さく」混淆だと言ふ説について、一応は合理的な説明だが実際の証明はむづかしい。しょせんは結果論である、と言ふ。
  • 「ぶをとこ」の表記として実証の得られる表記としては、「不男」がもっとも穏当のやうに思はれる。(p368)
  • 四字熟語の流行など、何となく徒花が気まぐれに咲き出した感がある。(p372)
  • 国語辞典を読むことが近頃(1997年当時)評論家の間ではやってゐることについて。

ジョンソン博士の英語辞典のやうに、鬱積したわだかまりを社会に向って、晴らすとか、皮肉を飛ばしたり、諷刺を利かせようとかするものが、辞典の理想だなどとは私は思はない。むしろ生温いが、中正穏健で、精確でありたいと念願するだけである。(p383)

  • 長谷川如是閑『倫敦!倫敦?』で「須らく」(しばらく)に誤って「すべからく」とルビが振ってある。原本以来の誤り。(p394)
  • 見坊豪紀が『辞書と日本語』で書いた回想について。

私が「矢来」について興味をもつのは、[略]誰が考へた、誰が先に考へた、といふやうな語源の先陣争ひのことではない。ましてや、素人っぽい見解で山田[忠雄]説を[見坊が]感心して受け入れたなどといふやうなことではなくて、何故に「やらひ」を「矢来」と書くやうになったかの、そのからくりの探求である。
(p404)

  • 佐々木邦について。私は此の人の文学を、穏健な常識に裏づけられた明治末期以来のユーモア小説の一流として、その用語の好ましい保守性とともに敬意を表する。(p430)

追記