高島俊男『寝言も本のはなし』(再読) つづき

「とびきりおもしろい日本人の伝記十冊」で紹介してゐる本

澤柳大五郎『新輯鴎外箚記』(小澤書店)の書評

由来、日本の文章には「居ずまい」というものがあった。鴎外はもとより生涯居ずまいの正しい文章を書いた。鴎外を「傾愛」してやまない澤柳氏もまた五十年一貫して日本語の居ずまいを守った。居ずまいの正しい文章はおのずからそこに一種の気韻がただよう。わたしが澤柳氏の文章を尊重するのはその気韻のゆえである。

戦後わが国の文化は、上等を下等の線まで引きずりおろし上等下等の区別をなくすることをもって平等とし民主主義とした。昭和二十一年に強行された国語改革はその先鞭をつけたものであって、国民の国語運用能力の向上をはかるかわりに、車夫馬丁の金釘流を全日本人に(さらには故人にまで!)強いたものであった。それでは文章の居ずまいも何もあったものでないから、澤柳氏は鴎外を語るとともにその「假名遣意見」を引いて国語破壊を憤り嘆いたのである。

最後に澤柳の文章を引いてゐる。
これは謂はば、未熟の若苗数株を植ゑたのみで打棄てられた廃園である。久しく遠離つてゐる老園丁は今更そこに近づく勇気さへない。若い新しい園丁がそれをどのやうに繕ひ整へて下さるか、またそこに何かを見出して下さる未知の人があるのかどうか、老いたる園丁は、いや既に園丁ですらない老夫は、ただ遠くからおづおづと気遣ふばかりである。