呉智英『現代人の論語』抜萃

限定しないと全文「抜萃」になってしまひさうだから面白い(笑へる)もののみ。

子路が魯国の有力者季氏の家臣だった時のことである。弟弟子の子羔を季氏に推薦して費という町の長官職に出仕させようとした。費は要衝の地であり、政争や叛乱の危険がある。未熟な若者である子羔に治めきれるような所ではなく、孔子は反対して子路に言った。「勉強中の若者がだめになってしまうではないか」。これに対して子路が言う。「費の町にも、民衆はいます、伝統文化はあります。実地で学ぶのも勉強でしょう。先生、書物を読むことだけが勉強なんですか」
[略]
さて、それにしても、子路の言葉はなかなか正論である。というより、いつもの子路らしくもなく整然と筋が通っている。孔子がプッと吹き出しながら言った。「私はいつも言っているだろう。口のうまい奴は信用ならぬでな」。おそらく、剛毅を誇る子路は、秀才揃いで弁の立つ弟弟子たちに同じせりふを吐いていたのだろう。それを踏まえた孔子の言い方はいかにもユーモラスだ。(p102-103)

孔子は弟子たちを伴って魯国内の小さな町武城に赴いた。武城では子游が「宰」(取締り)となっていた。あるいは、弟子の仕事ぶりを見るためであったのかもしれない。
さて、武城の町を歩いていると、礼楽の作法に則った琴と歌が聞こえてくる。礼楽、すなわち文化こそが政事の基本だというのが、孔子の思想である。それにしても、武城の如き小さな田舎町で文化とは! 孔子は思わず笑って言った。「鶏をさばくのに牛刀を使うこともあるまいにな」。師の傍に立って町を案内していた子游が謹厳な顔を一層硬くして言った。「以前、この偃(子游の本名)は先生からこうお聞きしております。為政者が礼楽の道を学べば人民を愛するようになり、民衆が礼楽の道を学べば民度が高まる、と」。こんな小さな武城の町でも礼楽を優先させたのだと、真顔で孔子を見上げる。孔子はおかしさを噛み殺しながら言った。「うむ、そうだ。諸君、子游の言葉が正しいのだぞ。なに、先程のはちょっと冗談を言ったまでだ」
子游を除く一行の顔に笑いが浮かんだことが想像できる。孔子も再度「莞爾として笑」ったことだろう。これもまた想像である。しかし、本章には明らかに「莞爾」「笑」「戯」という言葉が出ている。孔子は謹厳すぎる弟子をからかい、白分の思想をあまりにも細かく実現することもからかった。(p162-p163)

先生がおっしゃる。一体、誰があの微生高を正直者だなんて言ったのだろう、微生高にはこんな話があるのに。近所の人が酢を切らしたので、微生高のもとに酢を借りに来た。ところが、微生高の家でも酢を切らしていた。それで、微生高はすぐ隣の家へ酢を借りに行き、白分の家の酢のような顔をして、借りに来た人に貸してやった。彼はそういう人物なのになあ。
体面を繕う偽善的な微生高を批判した一章である。[略]友人が酢を借りに来た。白分の家にも酢はない。それなら、正直にないと言えばいいではないか。隣家から借りて来てまで体面を繕う必要がどこにあろう。
[略]
しかし、どうも納得しにくい。だって、微生高はいい奴ではないか。友人が酢を借りに来たが、自分の家でも切らしている。それで、隣の家に行って頭まで下げて酢を借り、そんなことを友人に気取られぬよう、さりげなく酢を渡してやる。どう考えても、気配りのあるいい奴である。孔子は一体何を怒っているのだろう。論語を読むたびに、私はそう思っていた。
[略]
この章を理解するために、まるで反則技のような大技をしかけたのが、荻生徂徠である。『論語徴』では、信じがたいような解釈を提示している。本章は、孔子の冗談なんだよ、というのだ。
[略]
たれか微生高を直なりと謂う、というのは、わざと反対の言い方で冗談を言ったまでなのだ。至上の親しみを表現するためなのである。
[略]
おそらく、微生高の家へ酢を借りに行ったのは孔子なのである。ある人と言っているのは、わざとぼかして言っているので、本当は孔子なのである。
[略]
微生高は友だち思いのいい奴である。そのことは、孔子も含め、誰もが知つている。現に、孔子が酢を借りに行った時、微生高はわざわざ隣家から酢を借りて来て、そ知らぬ顔で渡してくれた。そのことを思い出して、孔子は知人たちに語る。いやあ、微生高って男は、そういうことをするウソツキ野郎なんだよ。酢を借りに来た男? それは言えないね。まあ、ある人としておきましょうか。

「不亦〜乎」の俗解

メモ。蘄田恆存;1961/5;論爭のすすめについてのコメント。

本書所収の「隣人・大岡昇平 : 福田恆存氏の辯明」の「その一 私が大岡の訪問を嫌ふといふ恨みごとにたいして」で、国際文化会館にかかる吉田茂の書、論語学而の「有朋自遠方來不亦樂乎」といふ一句を、これにつづく対句を想像したうへで、「この男もまた歸つて來る、遠くからたまに訪ねて來られるのも亦たのしいことと思はぬか」とごまかしたのである。それで始めて「亦」がきいてくる(p.287)、と和らげてゐるのだけど、「不亦〜乎」といふのは「なんとまあ〜ではないか」といふ反語・咏嘆の句法であつて、この場合の「亦」字を「もまた」とするのはあやまりであるむねの指摘が、古田島洋介「「不亦楽乎」の俗解 : 原文を忘れた漢文訓読の危険性」(『明星大学研究紀要』10、2002年)でされてゐる。

うーむ、これまで論語解説書はけっこう読んできたつもりなのに、はっきり「俗解」と意識してゐなかった(咏嘆の句法だといちおう知ってゐたんだが)。『明星大学研究紀要』なんて国会図書館にコピーを頼みでもしないと読みやうがないなあ。
まあ、誤解・俗解があるにしても福田氏のこの文章はなかなか面白かった。「弟子がいつまでも側にゐたのでは、孔子も嫌だったらう」といふやうな話(もちろん戯文だが)。

「日の丸」の方がこなれたいい言葉だと思ふ

普請紀2006年11月17日

日本國の國旗は日章旗と謂ひます。太陽を摸した丸いものを表すのが日の丸と謂ふ言葉です。
さて、日章旗が日本國の國旗であることが嫌な人逹は、何故日章旗と云はずに「日の丸」と云ふのでせうか。太陽が丸く書かれることも嫌ひなのですか。

そんな風に変な意図をもって使はれてゐるんだらうか。単に「日の丸」の方が一般的であるせいではないんだらうか。本当にそんな使ひ分けがあるならば愚劣だが、それでも言葉としては「日の丸」の方がいいと思ふ。

「東京セブンローズ」の用字

井上ひさしの「東京セブンローズ」を途中まで。「舊字舊假名」として書かれてゐるけど、用字には粗が多い。「注文*1」「掘り廣げる*2」「濳って*3」「人參*4」「格鬪*5」「榮養*6」「模造*7」「一應*8」とか。

*1:「注文」=「註文」の代用表記。
*2:「廣げ(広)」=「擴げ(拡)」の代用表記。
*3:「濳」=「潛」の異體字。
*4:「人參(人参)」=「人蔘」の代用表記。
*5:「格」=「挌」の代用表記。「挌鬪」が正しい。
*6:「營養」が正しい。
*7:「模」=「摸」の代用表記。「摸造」が正しい。
*8:「一應(一応)」は混同された別語。現代の意味では「一往」が正しい。

正しい表記を追求する姿勢にはもちろん大賛成なのだけれど、挙げてゐる例を根拠に「舊字舊假名」として書かれてゐるけど、用字には粗が多い。と言へるかどうか、やや疑はしい。
手元の『新編 大言海』(昭和五十七年二月二十八日。本文は元のままらしい)を引くと、

  • 「一應」はいちわう(一往)ニ同ジとある。
  • 「榮養」の説明に此語、營養ト書クハ、誤ナリとある。
  • 「かくとう」の見出しで「格闘」しか無い。
  • 「ちュうもん」に「注文」しか無い。「ちュう」には両方の字がある。
  • 「にんじん」に「人參」しか無い。
  • 「ひろがる」などに「弘・廣」しか無い。
  • 「もさく」は「摸索」。「もぞう」は「模造」。

となってゐる。決定的ではないが、当時の用字の参考になる。
「そんな表記をするやうでは、(現代の)正字正かな派としてまだまだだな」とは言へるかも知れないが、井上は時代の雰囲気を出すために当時の平均的な用字を再現しただけなのだらうから、通じない批判だらう。
追記。書き終って「正字・正假名使ひの爲のアンテナ」を見たらもう訂正されてゐた。早い早い。と言ってもたまたま同じ時間に見てゐただけだらうけど。
それと、挙げてゐる用字例は現代の正字正かな派が追求する分にはそれなりに適切なのではないかと。(以上追記)
ついでにメモ。「井上ひさし『東京セブンローズ』が書かない『美しき國語』の歴史」についてのコメント。

10ページの記事に良く詰込んだと思はれる程、多くの事實が記載されてゐるので、興味のある人は探して讀むがよろしい。もつとも、興味のある人は既に大體の事實は知つてゐる筈である。そして、興味のない人は、自分からこの手の事にコミットしようとしないから、私が何を言つても無駄であらう。

このあたりが、正字正仮名を薦める文章を書くときに心すべき点だ。といふより、書いてゐるとその点を意識したくなくても痛感する。当然ではあるが『私の国語教室』の書き出しも福田氏がこのジレンマに無感覚でなかったことを感じさせる。

マニアが自信を持ってよだれダラダラの〜

「マニア推薦の〜」といふ表現を見かけた。どうも「マニア垂涎の〜」の聞き違ひ・覚え違ひから生れた言葉ではないかと疑ってしまふ。