「不亦〜乎」の俗解

メモ。蘄田恆存;1961/5;論爭のすすめについてのコメント。

本書所収の「隣人・大岡昇平 : 福田恆存氏の辯明」の「その一 私が大岡の訪問を嫌ふといふ恨みごとにたいして」で、国際文化会館にかかる吉田茂の書、論語学而の「有朋自遠方來不亦樂乎」といふ一句を、これにつづく対句を想像したうへで、「この男もまた歸つて來る、遠くからたまに訪ねて來られるのも亦たのしいことと思はぬか」とごまかしたのである。それで始めて「亦」がきいてくる(p.287)、と和らげてゐるのだけど、「不亦〜乎」といふのは「なんとまあ〜ではないか」といふ反語・咏嘆の句法であつて、この場合の「亦」字を「もまた」とするのはあやまりであるむねの指摘が、古田島洋介「「不亦楽乎」の俗解 : 原文を忘れた漢文訓読の危険性」(『明星大学研究紀要』10、2002年)でされてゐる。

うーむ、これまで論語解説書はけっこう読んできたつもりなのに、はっきり「俗解」と意識してゐなかった(咏嘆の句法だといちおう知ってゐたんだが)。『明星大学研究紀要』なんて国会図書館にコピーを頼みでもしないと読みやうがないなあ。
まあ、誤解・俗解があるにしても福田氏のこの文章はなかなか面白かった。「弟子がいつまでも側にゐたのでは、孔子も嫌だったらう」といふやうな話(もちろん戯文だが)。