『ことばの海をゆく』 見坊豪紀 1976年 朝日選書

空が明といふ新しい(と思はれる)語形には違和感がある、自分なら明るむだ、とのこと。(p42)
「腹をくくる」「どまんなか」は元は関西弁。(p52)
「あっけらかん」は元は茫然自失の状態。さらに古くは「手持ちぶさた」かも知れない(朱楽管江が手持ちぶさたなのでわれのみひとりあけら管江と書きつけたエピソード)。(p130)
「ある程度の」といふ程の意味で「一定の〜」と使ふが、文字通りには「不変の」といふ意味なので、一定の成果など、人によっては違和感を覚える。(p160)
辞書の客観主義と規範主義とを調和させる考へ方として、著者は辞書=かがみ論を唱へてゐる。辞書は社会のことばを映す鏡であると同時に各人の言語行動の鑑であると。そして、まず鏡であって次に鑑となりうることに注意を促してゐる。(p202)

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『異体字とは何か』杉本つとむ 桜楓社 1978年

昭和47〜53年の論文集。

これまで論述してきたように、〈正字〉には二つの意味用法がある。(A)は<正しい文字>というごく常識的なものである。この場合、正しいの規準はあくまで同時代的であり、主として政治・政策――現代なら文部省の制定指示的な面からのものである。もちろんその基調には正と制定するに価する漢字自体の正しさを示す要素をもっている。もう一つ、(B)は〈正体字〉の略称としての<正字(正体)>で、これは本文中で、〈正体〉とも呼称したが、論述したように<本字>で言いかえられ、通体・俗体字に対応するものである。本源が明確になっており、(A)の〈正字〉と相入れぬ場合もある。すなわち現代の<学>の<正体>は<學>であり、〈学〉はその点では、〈正体>ではない。両者の規準の本質的異なりが判明しよう。(A)の立場からいけば、(A)の正字をのぞく異体字も本字((B)の<正字(正体)>)も誤字となる。これは何ら学問的に正誤の裏付けがあってのことではない。この二つの<正字>の矛盾を、現代の日本では〈旧字体新字体〉などという別の次元で一部妥協させている。建前はともあれ、本音では、〈学・學〉の両者とも(B)の〈正字(正体)〉とも考えている。かえって複雑にしたのが当用漢字字体の一側面である。しかしこれは一種の過渡的現象にすぎない。(A)の〈正字〉にゆれがあっても、(B)の〈正字(正体)〉は過去未来とほとんど固定したもので、同列に考える必要もなく、考えるべきではない。〈異体字〉は原則として、(B)の〈正字(正体)〉に対応するものであり、同時代の(A)の正字の実態を明らかにする効用がある。(p86)

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