『ことばの海をゆく』 見坊豪紀 1976年 朝日選書

空が明といふ新しい(と思はれる)語形には違和感がある、自分なら明るむだ、とのこと。(p42)
「腹をくくる」「どまんなか」は元は関西弁。(p52)
「あっけらかん」は元は茫然自失の状態。さらに古くは「手持ちぶさた」かも知れない(朱楽管江が手持ちぶさたなのでわれのみひとりあけら管江と書きつけたエピソード)。(p130)
「ある程度の」といふ程の意味で「一定の〜」と使ふが、文字通りには「不変の」といふ意味なので、一定の成果など、人によっては違和感を覚える。(p160)
辞書の客観主義と規範主義とを調和させる考へ方として、著者は辞書=かがみ論を唱へてゐる。辞書は社会のことばを映す鏡であると同時に各人の言語行動の鑑であると。そして、まず鏡であって次に鑑となりうることに注意を促してゐる。(p202)

なぜか人びとは、ことばを話題にするとき熱狂的になります。断固と主張してゆずらないところがあります。よく聞いていると、そこに独断と論理の飛躍があったりするのですが、ことばの問題をことばに即して論理的につきつめるということは、じつは容易なことではないのです。というのは、論理の各側面を裏づける言語的事実というものが本来的には要求されているのに、根本的資料たるべきなまの言語事実ほ、本文中でくりかえし述べたとおり、個人の体験と予測をはるかに越えて広がっているからです。その広がりは、空間的にも時間的にも、分野的にも用法的にも、じつに多種多様です。
その広がりのある一、二点をAさんが押え、別の一、二点をBさんが押え、というのでは議論がうまくかみあわないのも当然でしょう。だから評論をする前にまず足もとの現実をよく見たい。なぜそうなのか、どうしてそうなったのか、それをよくたしかめたい。これがことぱに対する私の基本的態度です。
ことばの外的な広がり、または豊かさ、とりとめもなく雑多に展開しているとみせながら、やはりそれが現代の日本語であるという共通性、そんな状況を知っていただければ、私がこの本を書いた目的は達成されます。(p210)

書いた分だけ。続きはまた今度。補足した(10月23日)。