ろくに調べもせずに旧字を弁護・支持してみる(4)

もはや竹林さんと対話してもまったく意味がないことが判明しました。よって竹林さんのブログにコメントすることはこれで終わりにします。以後、トラックバックしてもらっても無視しますんで、あしからず。

とのことなので、万一読むかも知れない最初の部分に要点を挙げておく。

  • この後出しジャンケン野郎め! こっちがこんないい加減な理由しか挙げられなかったのはお前のせいだ。
  • こっちも白川静ぐらゐ知ってるよ。と言ふか、「旧字派」(仮称)の中では常識。それをさも自慢げに書くのは自己顕示欲まるだしだな。みっともない。
  • 最初に今回みたいに分りやすく書けよ。それとも「釣り」だったのか。罠か。
  • 文脈を無視して自分に都合良く曲解するな卑怯者。

それと、他のサイトでも言及されてるよ。わざと無視してるのかも知れないが。

前の記事にタイトルをつけた。以下の文中では「鳩笛1」のやうに呼ぶ。

「外灯都市」の記事。以下の文中では「外灯1」「外灯続き」のやうに呼ぶ。

さて、「外灯続き3」について。

> 私の場合、漠然と旧字(「国語改革」以前のあれ)の方が(比較的に、だが)かなり正しい
> やうだと思って支持してゐるだけで、特に"誰が定めたどんな体系"とかは深く考へずに
> いい加減にやってますので。ただ、前に挙げた具体例のやうな場合はそれで十分でせう。
驚いたというか、あきれました。こんないい加減な理由で〈正字〉〈旧字〉派などと名乗っている人もいるんですね。世のなかヘンな人もいるものです。
しかしぼくは実は竹林さん以上に〈旧字〉というものに文化的意義を認めてるんですよ。それは、竹林さんがあげている、

白状すればぼくは白川静の本を読んだときに、〈新字〉より〈旧字〉のほうがずっと優れてると思いました。氏は〈旧字〉から〈新字〉への改訂を文化破壊と呼んでいる派です。氏の著作、たとえば入手しやすいところで入門者向けの字書『常用字解』などを見れば〈新字〉より〈旧字〉のほうが優れていることは一目瞭然であり、入門者向けでない字書は素晴らしい大系になっています。
 しかし(その部分を読みのがしていたのかもしれませんが)ぼくが読んだ白川静の本には、〈旧字〉のもとになったいわゆる〈正字体〉はそれまで一般的にほとんど使用されたことのなかった字であることは書いてなかったようにおもいます。

なあんだ。〈新字〉より〈旧字〉のほうがずっと優れてるとのは前提だったのか。ちゃんと白川さんの本も何冊か読んでるのか。
と言ふか、ふざけるな。それだったら最初にちゃんと書けよ、素直に白状しておけよ。「外灯1」を読めば誰だって「この人は旧字のことは全然知らないんだな、〈新字〉より〈旧字〉のほうがずっと優れてると知らないんだな」と誤解するだらうが。ほんとに迷惑な奴だ。
こっちはその誤解のせいで、旧字の意義を説く際には、敢へて見ただけで分るやうな具体例だけを挙げて、白川静にも言及しなかったんだよ。だからこんないい加減な理由しか書けなかったんだよ。何がしかしぼくは実は竹林さん以上に〈旧字〉というものに文化的意義を認めてるんですよだ、後出しジャンケン野郎め。「外灯続き」でさて、「鳩笛雑記帳」というブログに書かれていたことをみると、〈正字体〉にこだわる理由というのは、どうも「系統」「体系」的なもののようです。つまり、甲骨文字からはじまって、漢字があるいは形を変えたりしながら発展してきた、その体系的な点からみて、〈正字体〉〈旧字体〉は良い。とか書いた時に、どうして「いや、その程度のことは知ってます。白川静ぐらゐは読んでるし。論点が違ふ。」とでも書いてくれなかったんだよ。「外灯1」についてことさらそこを強調してあのような書き方をしましたがと、反省の色も無く言ひ訳を書いてゐるが、最初に今回みたいに分りやすく書けよ。ほんとに迷惑な野郎だな。

では、〈旧字〉がいかに優れた字であるかを知らない竹林さんに、〈旧字〉の素晴らしさを、そして、それでもなぜぼくが〈新字〉を使うのかを教えてあげましょう。
 〈旧字〉の優れた点というと、まず象形文字的な形象を多く残しているという点があげられるでしょう。
 竹林さんは『火偏・三水・人偏・草冠・竹冠といった漢字の部首を見て、「ああ、火に関係ある字だな」』という程度のくだらない理由をあげてましたが、〈旧字〉の優れた象形文字性はそんな程度のものではありません。
 しかし、現代日本人が字面を見ただけでわかるものでもないのです。たとえば「闇」を、字面をみて「門」と「音」に関係するので「呼び鈴」のようなものかと思えば、これは間違いでしょう。〈旧字〉を理解するには漢字が生まれた古代中国の文化習俗への理解がなければ、字面をみただけではわからないのです。

ふざけるな。こっちはお前が白川氏のことも知らない、旧字のこともよく知らないと思ったから(この誤解はもちろんarukaのせい。ことさらそこを強調してあのような書き方をしたからだ)、白川説にも言及せずに字面をみただけでも分るやうな、古代中国の文化習俗への理解がなくても分るやうな、卑近なくだらない例を挙げたんだよ。こんなことなら最初に「arukaさんは御存じないでせうが、白川静といふ独創的な学者がゐまして、入門者向けの字書『常用字解』などを見れば〈新字〉より〈旧字〉のほうが優れていることは一目瞭然であり、入門者向けでない字書は素晴らしい大系になっています。arukaさん程度の方でも理解できると思ひますよ」とか見下して「啓蒙」してやれば良かった。
それにしても、古代中国の文化習俗への理解がなければ、字面をみただけではわからない例を挙げるのは、確かにそれを知った喜びからすれば無理もないが、日常卑近な火偏・三水・人偏・草冠・竹冠をそこまでバカにするのは何故だ。権威主義者だからか。前者を素晴らしい大系と評価する根拠は、火偏を「ああ、火に関係ある字だな」と思ふのと実は本質的には同じ事なんだが、arukaは本質が理解できない「朝三暮四」のサルか。
そもそも、「ああ、火に関係ある字だな」といふのは、〈旧字〉の優れた点として挙げたのではなく、誰かさん(あるかさん)の、

正字体〉はある程度の知識人が、特別な場合に使うものとして存在すればいいし、文字の系統なんて研究者が扱うものであり、知識としてあればいいんじゃないでしょうか。

に対する反論で、日常卑近な例として挙げたんだから、或る意味くだらないに決ってゐる。自分に都合良く曲解するな卑怯者。
もう一つ曲解の例。

> 私の場合、漠然と旧字(「国語改革」以前のあれ)の方が(比較的に、だが)かなり正しい
> やうだと思って支持してゐるだけで、特に"誰が定めたどんな体系"とかは深く考へずに
> いい加減にやってますので。ただ、前に挙げた具体例のやうな場合はそれで十分でせう。
驚いたというか、あきれました。こんないい加減な理由で〈正字〉〈旧字〉派などと名乗っている人もいるんですね。世のなかヘンな人もいるものです。
しかしぼくは実は竹林さん以上に〈旧字〉というものに文化的意義を認めてるんですよ。それは、竹林さんがあげている、

これは「正字体の根拠」つまり誰かさん(あるかさん)が挙げた「誰がいつ定めた」云々について自分は無知だと言ったまでのことで、誰かさん(あるかさん)が得意げに説く旧字の素晴らしさ程度のことはもちろん知ってゐる。文脈を無視して自分に都合良く曲解するな卑怯者。

漢字の世界は広く深いものです。その世界を理解することもせずに、いい加減な知識で〈正字〉〈旧字〉派など気取ることがいかにくだらないことか、少しは理解できたでしょうか?

お前の説明したのは白川説の受け売りや、正字一般的に使われるものではなかったといふ程度の、「旧字派」(仮称)ではそれなりに一般的な知識ぢゃないか。その程度のことでよくそんなにいばれるなあ。どれだけ自惚れ屋なんだろね、誰かさん(あるかさん)は。
〈旧字〉を使うことが自己顕示欲まるだしの行為だと何故言ひ切れる??? 人の心が「読める」超能力者なのかな、誰かさん(あるかさん)は。自分がものすごい自惚れ屋だから他人のこともさうだと決めつけてしまふんぢゃないのか。

ろくに調べもせずに旧字を弁護・支持してみる(5)

誰かさん(あるかさん)の罠(?)にはまって醜態をさらした(1)〜(3)は「黒歴史」((4)を参照)。仕切り直し。

誰かさん(あるかさん)が最初からこんな風に分りやすく書いてくれれば竹林とかいふ人が罠(?)にはまって泣きべそをかくことも無かったんだが、それはともかく。

しかし、ここで〈旧字〉の限界がきます。〈旧字〉では器をあらわす象形文字の「口」と、人間の口をあらわす「口」が同じ形になってしまっているため、〈旧字〉を見ても「人間の口が四つあるなかに犬」という、字面だけではなんだかわからないものになっています。

限界が来るのは飽くまでもここでだ。その程度はしょうがないとする立場なら問題ない。

そして、けっきょく説明されなければわからないなら、〈新字〉だって〈旧字〉だってそう大きな違いはない、多くの人が〈新字〉を使い慣れている現状があるなら、ことさら〈旧字〉を使用し普及させるような運動をする時間があったら、むしろ漢字に対する理解を深めたほうが有意義だという考えが出てくるのも自然だと思います。(ぼくはこの考えです)

説明されれば分るといふ点では、旧字は新字とは大きな違いがある。白川静著作、例へば入門者向けの字書『常用字解』などを見れば〈新字〉より〈旧字〉のほうが優れていることは一目瞭然である。多くの人が〈新字〉を使い慣れている現状があるけれど、漢字に対する理解を深めるのは大事なことであり、〈旧字〉を使用し普及させるような運動その役に立つから有意義だという考えが出てくるのも自然だと思います。(ぼくはこの考えです)。(以上、見て分る通り適当に切り貼りして少し補っただけで反論になった)

つまり、漢字のなりたちや古代中国の文化や習俗に理解がなければ〈旧字〉を見たってそれが何を意味するかわからない一方、理解さえあれば〈新字〉を見たってそれが何を意味するか理解できる知識が身につくからです。

確かに〈旧字〉を見たってそれが何を意味するかわからないだらうが、字源まで遡らない「ああ、これは別の系統の字なのか」程度のことは説明無しで見ただけで分るよ。前に挙げた例だが、

  • 違ふ系統の字をいっしょくたにしてしまった例
    • 學(学)、覺(覚)と營(営)、榮(栄)、螢(蛍)、勞(労)
    • 辯(弁)と辨(弁)と瓣(弁)
  • 体系を崩してしまった例
    • 缺(欠)と決、訣などとの体系
    • 轉(転)、傳(伝)と専
    • 賣(売)と買
    • 假(仮)と暇

権威主義者ならかういふ卑近な例を軽んじてしまふだらうが。

たとえ一般的に使用されているのが略字めいた〈新字〉であっても、漢字の研究がすすみ、甲骨文、金文からはじまって、いわゆる〈正字〉も含めて様々な字体を本屋に行けば容易に参照できて、比較研究することもできる現在の状態は、ことさら文化破壊とさわぐほどの状況とはおもえません。そこはぼくは白川静とは意見が違います。
 むしろ、白川静に代表されるようなきちんと漢字を研究してくれる学者がいなくなってしまうことのほうが、漢字文化にとって危機的な状況だとおもいます。上にあげたような「器」という字の意味なんて、一般的な現代人が字面をみただけではわかるはずなく、研究者が説明してくれて初めて理解できるものだとおもうからです。

自分が何を書いてるか理解してゐるのか誰かさん(あるかさん)は。後段が前段の反論の根拠になってるぢゃないか。学者・研究者と一般人とが生れつき分れてゐる、なんてことはない。一般的に使用されているのが略字めいた〈新字〉であることによって、字の体系・字源を知る人が減り、きちんと漢字を研究してくれる学者がいなくなってしまうことつまり漢字文化にとって危機的な状況につながることは大いにあり得る。間違ひなく文化破壊だ。

漢字の世界は広く深いものです。その世界を理解することもせずに、いい加減な知識で〈正字〉〈旧字〉派など気取ることがいかにくだらないことか、少しは理解できたでしょうか?

確かにいい加減な知識しか無いが、これまで誰かさん(あるかさん)が書いた程度のことは当然知ってたよ。その程度の知識でよくもまあ偉さうに説教が出来るもんだな。恐るべき自己顕示欲だね。白川氏の説に感動するのはよく分るが(たぶん旧字派では白川説の重要性は常識)、知識の受売りをして得意がるのがいかにくだらないことかは、少しは理解した方がいいよ。

ろくに調べもせずに旧字を弁護・支持してみる(6)

それにしても、誰かさん(あるかさん)は何ら旧字に反対する積極的な理由を何ら挙げてゐない(挙げられない)。

  • 〈旧字〉のもとになったいわゆる〈正字体〉はそれまで一般的にほとんど使用されたことのなかった
  • 現代の字で甲骨文は十分には十分には再現できない
  • 説明されなければわからないなら、〈新字〉だって〈旧字〉だってそう大きな違いはない
  • 多くの人が〈新字〉を使い慣れている現状がある

どれも現状肯定といふのが前提に無ければ大した理由ではない。

書き終ったのでパブリックモードに戻す。

私の意見は書きました。後は「鳩笛雑記帳」の作者にお任せしませう。

もうサボりたいなー。誰か他の人にお願ひしたいところです。