ろくに調べもせずに旧字を弁護・支持してみる(5)

誰かさん(あるかさん)の罠(?)にはまって醜態をさらした(1)〜(3)は「黒歴史」((4)を参照)。仕切り直し。

誰かさん(あるかさん)が最初からこんな風に分りやすく書いてくれれば竹林とかいふ人が罠(?)にはまって泣きべそをかくことも無かったんだが、それはともかく。

しかし、ここで〈旧字〉の限界がきます。〈旧字〉では器をあらわす象形文字の「口」と、人間の口をあらわす「口」が同じ形になってしまっているため、〈旧字〉を見ても「人間の口が四つあるなかに犬」という、字面だけではなんだかわからないものになっています。

限界が来るのは飽くまでもここでだ。その程度はしょうがないとする立場なら問題ない。

そして、けっきょく説明されなければわからないなら、〈新字〉だって〈旧字〉だってそう大きな違いはない、多くの人が〈新字〉を使い慣れている現状があるなら、ことさら〈旧字〉を使用し普及させるような運動をする時間があったら、むしろ漢字に対する理解を深めたほうが有意義だという考えが出てくるのも自然だと思います。(ぼくはこの考えです)

説明されれば分るといふ点では、旧字は新字とは大きな違いがある。白川静著作、例へば入門者向けの字書『常用字解』などを見れば〈新字〉より〈旧字〉のほうが優れていることは一目瞭然である。多くの人が〈新字〉を使い慣れている現状があるけれど、漢字に対する理解を深めるのは大事なことであり、〈旧字〉を使用し普及させるような運動その役に立つから有意義だという考えが出てくるのも自然だと思います。(ぼくはこの考えです)。(以上、見て分る通り適当に切り貼りして少し補っただけで反論になった)

つまり、漢字のなりたちや古代中国の文化や習俗に理解がなければ〈旧字〉を見たってそれが何を意味するかわからない一方、理解さえあれば〈新字〉を見たってそれが何を意味するか理解できる知識が身につくからです。

確かに〈旧字〉を見たってそれが何を意味するかわからないだらうが、字源まで遡らない「ああ、これは別の系統の字なのか」程度のことは説明無しで見ただけで分るよ。前に挙げた例だが、

  • 違ふ系統の字をいっしょくたにしてしまった例
    • 學(学)、覺(覚)と營(営)、榮(栄)、螢(蛍)、勞(労)
    • 辯(弁)と辨(弁)と瓣(弁)
  • 体系を崩してしまった例
    • 缺(欠)と決、訣などとの体系
    • 轉(転)、傳(伝)と専
    • 賣(売)と買
    • 假(仮)と暇

権威主義者ならかういふ卑近な例を軽んじてしまふだらうが。

たとえ一般的に使用されているのが略字めいた〈新字〉であっても、漢字の研究がすすみ、甲骨文、金文からはじまって、いわゆる〈正字〉も含めて様々な字体を本屋に行けば容易に参照できて、比較研究することもできる現在の状態は、ことさら文化破壊とさわぐほどの状況とはおもえません。そこはぼくは白川静とは意見が違います。
 むしろ、白川静に代表されるようなきちんと漢字を研究してくれる学者がいなくなってしまうことのほうが、漢字文化にとって危機的な状況だとおもいます。上にあげたような「器」という字の意味なんて、一般的な現代人が字面をみただけではわかるはずなく、研究者が説明してくれて初めて理解できるものだとおもうからです。

自分が何を書いてるか理解してゐるのか誰かさん(あるかさん)は。後段が前段の反論の根拠になってるぢゃないか。学者・研究者と一般人とが生れつき分れてゐる、なんてことはない。一般的に使用されているのが略字めいた〈新字〉であることによって、字の体系・字源を知る人が減り、きちんと漢字を研究してくれる学者がいなくなってしまうことつまり漢字文化にとって危機的な状況につながることは大いにあり得る。間違ひなく文化破壊だ。

漢字の世界は広く深いものです。その世界を理解することもせずに、いい加減な知識で〈正字〉〈旧字〉派など気取ることがいかにくだらないことか、少しは理解できたでしょうか?

確かにいい加減な知識しか無いが、これまで誰かさん(あるかさん)が書いた程度のことは当然知ってたよ。その程度の知識でよくもまあ偉さうに説教が出来るもんだな。恐るべき自己顕示欲だね。白川氏の説に感動するのはよく分るが(たぶん旧字派では白川説の重要性は常識)、知識の受売りをして得意がるのがいかにくだらないことかは、少しは理解した方がいいよ。