露伴派です鴎外派です福田派です

前に読んだだけで反応し忘れてた。

わたしは幸田露伴派を名乗ることにする。それは、幸田露伴の思考方法とわたしが非常に似ているからであり、主張もうなずけるものが多いからである。幸田露伴は、「普通文章論」でこのように書いている*4。

うむ、結構結構。いいですね露伴派。正仮名派のためになる本当にいい文章を紹介してくれてありがたい。

すべて立場が異なれば論が異なる、仮名遣一ツについても様々の立場があつて従つて様々の論があるが、実用的文章から論ずれば、もし統治権を有して居る仮名遣が有らばその仮名遣に従ひ、統治権を有して居る仮名遣も無いならば、「実用」といふわが目的に協ふ仮名遣を取るとして差支無いのである。

特に統治権を有して居る仮名遣も無いならばといふ周到な限定がすばらしい。単純粗雑な「実用性信仰」とは大いに違ふ。

主人。 どういふわけも何もない。僕だつて「まをす」が誤でない事は知
 つてゐる。知ってゐるどころではない。明治になつてから「まをす」
 を不断使ふやうに復活させたのは、多分僕だらうと思ふ位だ。国民
 新聞なんぞへ、和文らしい文章でいろんなものを書いた頃は、友達
 が「まをす」は可笑しいと云つて冷かしたものだ。併し談話体のもの
 に「まをす」と書かれると、どうも心持が悪い。祝詞《のりと》を読むときは、
 今でも「まーをーす」とはつきり読むのだ。僕はあれを思ひ出す。談
 話には誰だつてあんな事を言ふものはない。「もおす」と発音するで
 はないか。音便で「まうす」と書くのが当前だ。他の例を考へて見給
 へ。箒は「ははき」だ。併し談話体には「はうき」と書いてもらひたい
 のだ。「ほうかむり」(頬冠)を「ほほかぷり」と書かれては溜らない。
 果して楽文館が一切の音便を排斥するのなら、何故《なぜ》「いうて聞せて
 下さりませ」といふ白《せりふ》を其儘植字するのだ。「いひて聞せて」と直さ
 なければならない筈ではないか。

正字正假名文庫でも読める。PDFファイル。