藤堂明保の白川静批判

藤堂明保による白川静『漢字』(岩波新書)の書評を、国会図書館で入手した。妄言師なりに要約すると「白川は字源研究者ではなく、中国古代宗教研究者だ。こんな本を書かせるのは、編集部の人選ミスである」といふことである。立命館の教授が、年下の東大助教授(当時)にこんな事書かれたら腹が立つのも当然だ。白川による感情剥き出しの反論も致し方ない気がする。
ちなみに、妄言師が大学で習つた “漢文学” の老齢の先生と “中国文学” の若い先生とは、いづれも藤堂の辞書を勧めてゐた。

なんか、この書き方だと白川氏の反論が腹立ちの余りに書かれた、意味もなく感情剥き出しの何の取柄もないものだと思はれさうだ。悪宣伝なのかな? 悪気の無い「妄言」かな?
藤堂の書評、ちょっとは読んでみたい気もするが借りるにしても大変さうだな。
ぐぐったついでに検索結果の8ページ辺りまでのを適当にメモしておく。

森 洋介
白川發言は『文字逍遥』所収「文字学の方法」(平凡社ライブラリー版320頁)ですね。加藤常賢も負けてゐません、講義録中に「そんな見てきたような嘘を言って。」「証拠のないこと、言っちゃいかんて」と名古屋辯丸出しで白川批判してゐるのが見られて愉快です。深津胤房編『維軒 加藤常賢 学問とその方法』113頁参照。まあ考古學者を「あんなの墓掘りだがや」と揶揄する位なので、甲骨よりも金石文が主といふ、對象とした筆記媒體の差もありさうですが。加地伸行の『孔子 時を越えて新しく』等では白川・加藤兩説併用でした。これに藤堂明保を加へて漢字學三つ巴で對照すると、さらに樂しめるかも?

猪川
御教示どうもです。「文字学の方法」の執筆動機になつた、藤堂明保「《書評》白川静『漢字――生い立ちとその背景』」(『文学』第38巻第7号、1970年7月号、106-112頁)を最近やうやくコピーしてよんだのですが、私の理解でいふと、白川説は、漢字字形に対する殷代祭祀階級での共時的な意味づけの体系でしかない、といふことだと思ひました。漢字漢語の性質上、字源と語源とが峻別できないのがむづかしいところなんでせうね。