斎藤緑雨『大いに笑ふ』

底本は『齋藤緑雨全集 巻一』。

大いに笑ふ [一浪士]

久しく逢ざりける友の偶ま訪來りて我の太く病ほつれたるを嘲り兔角慰めくれんと種々[さま/\]の物語しける程に我も紛れて大いに笑ひけりあやしき事の多けれど思出る便[つて]にもと其次第書つらねて復た笑ひぬ、笑ふ者却て笑はるゝハ承知の上と我負をしみを云ふを三馬今若あらバ此笑を如何にすべきとて友ハ笑けり
我放たれて既に三月に及ぶ、昔ハ浪士傘を張りしと聞けども我宿ハ蝶の來て眠ることもなけれバ唯手を束ねて青眼誰かあはれむの句を今尚誦し居れり然れども不遇畢竟心柄なり棄てゝ後棄らるゝにあらず棄られて後棄つるなり厭世何、樂天何、辭誼百萬遍したりとも頸の骨曲れりといふ者なけれバ我もこれより世辭學の初歩たる膝折ることを學ぶべしと決意しけるに我嘗て汨羅に汽車通ぜバと云けん舌の未乾かざるをも忘れて清[す]むとも濁るとも水ハ冷たしと御免蒙るも可笑しからずや出て易者に問へバ君ハ極めて運好き方なり不日縁談纏まるべしと言れていや/\我ハ熱心なる無妻主義者なり廢夫婦論を唱へて夫婦ハわれらが棲める天地間に階級といへる面倒のものを形づくる元素なりと説たる男ぞと諍ひしが斯ても遂に銅貨二つ空くしたりと語るを友ハ腹をかゝへて愁ふる勿れ怒る勿れ縁談もいろ/\なり夢ならバ文王と倶に一つ鍋の肉を食はんも知る可らずとて大に笑ひけり
羽根突く音の窓前に喧[かまびす]しけれバ我眉を皺めて世ハ是なり鬼の如き乙女が花衣の表ばかり晴々敷飾りて利慾の追羽子に日輪の沒し給ふをも知らぬ迄と呟けバ爾いふ君も息ある間ハ鬼の一疋なりと友の笑ふに我口をしく、熈々雍々たる太平の吉祥ハ蜊賣る童子が家の屋根裏に在ることなりあれ見よあれも鬼かと言ヘバ友ハ稍ひるみて醉醒の水足らぬ節ハ其やうなる持藥も少々ハ用ひ給へとて笑ひけり
多情多病多恨多涙、才子と多の字とハ豫てより離るまじきものなり、聞く君當季多難なりと亦才子たるかなと友の冷罵[ひやか]しけれバ我すかさず附入りてされバこそ虎も鼠とハなりたれと云ヘバ元からの鼠何にか化さん仁木氏[うぢ]も降參すべしとシタタカ上塗されて我笑ひけり
何がしと申す博土、音樂學校の必要を説くに端唄大全とかいへるものより尤も勢力なき寧ろ唄ふ者もなき程なる俚歌を舉來りて今の所謂唱歌と高下ある由を示されたり是恰も佐倉炭を保護するに消炭よりも優れりと云ふが如し御尤もの事なり我敢て音樂學校の存廢に就て意見を挾[さしは]さむ者にあらざれども博士とも言るゝ人の議論としてハ頗る薄弱なるものと云ふべし其結論に於て一年僅々一萬二千圓の入目なれバ之を存し置くも可なりと言れしが如きハ纔五六錢の肴之を買給はゞ香の物よりも味あるべしと云ふに似て甚だしき愚痴なり偖ても學者ハ入らぬものかな我之を天下に誨へんかと友の誇がましく言ふを其之を誨へるからが最早入らぬことなりと我突込めバ君ハ不相變社會黨の分子を含めりとて又々笑ひけり(未完)
(續)
篁村先生の讀方説國民之友に出づ流石細き心附なれども元來讀方ハ讀者の研究すべきものにあらずして筆者が自然に之を感ぜしむるものなりと我ハ思へり先生の説の如くせバ書を讀む者ハ一旦先づ講釋師となるべきなり梅暦を讀む者必ずしも丹次郎の心得なかる可らざるかと云へバ友の曰く其事/\本町邊[へん]の若旦那娘を見れバお蝶かと思ひ藝者を見れバ米八かと思ふ蓋し讀方にあることならん梅暦を讀て門に立たバ通りすがる女の目遣ひ皆我に意あるが如くなるべしと是も亦大いに笑ひけり
路幅廣きを行かバ誤り無しとて日本橋へといふを兩國橋に導く者ハ忍月なり標示杭をたより行かバ過ち無しとて木下川[きねがは]の藥師へといふを平井の聖天[しやうでん]に誘ふ者ハ不知庵なり未だ目して眞正なる批評家とハなす可らざるなり一流異りて正太夫といふ者ありぬけ裏を探し歩きて他の遠廻りするを罵る皆駄目なりと言ヘバ君が言ふ所亦批評なり同じく駄目かと友いよ/\笑ひけり
極めて無學なるものハ新聞記者なり極めて無識なるものハ小説作者なり彼ハ新聞記者となりて初めて唐詩選を讀たるべし彼ハ小説作者となりて初めて島田髷を見たるべし宜なり和田平大黒屋あるを知ども竹葉神田川あるを知らず竹葉神田川あるを知れども只一の喜代川あるを知らずと云ヘバ君の言誤れり彼學あらバ學者となるべし學無きがゆゑに新聞記者とハなりたるなり彼識あらバ識者と云はるべし識無きがゆゑに小説作者とハなりたるなり餡ハ砂糖と小豆とより成れるを知るも只あまけれバ佳なりとおもひ砂糖と小豆と何れか菓子の先にすべきものなるやを知らず滔々たる天下皆是なりとて笑ひけり
文學てふ二字ハ今や小説家の專領する所となれり慶すべきか吊すべきか孔子も釋迦も是迄ハ思到らざりしならんと云ふを友ハうなづきて文學とハ木刀の謂なり帶ぶる者ハ明晃々たりと稱すれども其實切れざるなり我此二字に逢ふ毎に世間見ずと訓むと答ふ、されども今の小説家二號活字ハ四號活字よりも大なることを知るにあらずやと詰れバされバなりと其儘行つまりて友ハ笑ひけり(未完)
(續)
噛占て味の出るものハと突然友の謎かけしを我聞ぬふりして今の小説ハと云ヘバ九谷の急須なり見る目綺麗なれども瑕あるべしといふ、いや鐵葉[ぶりき]の庖丁なり形ハまぎれなけれど豆腐もむづかしといふ、いや和染の羽二重なり縫ふ間も色の褪むるといふ、いや/\惡酒なり忽ち頭にのぼるといふ、いや/\魔藥なり直ぐと眠るといふ、果ハ銀流しなり燒繼なり切張なりと互に言募りて顏見合せ勝負のつかぬが花なりと笑ひけり
露伴ハ山なり紅葉ハ水なり鴎外ハ化け物なり逍遙ハ曲者なりと云ふを仔細ハと友の問ふに唯何かなくと答ふれバ友ハつく/″\と我を見て北邙散士ハ唖の如し美妙齋ハ聾の如し是れも唯何かなく感じたるなりと云ひて一際高く笑ひけり
過ぬる明治廿三年ハ總じて見立といふこと流行りたり殊に何がしと呉がしとが郎黨に面被せて團十郎を奪ひ合しハ由々しかりぬ團十郎と立られて氣が濟まバ我團十郎の二つや三つを惜しむべき朝な/\何がしハ團十郎なり呉がしも團十郎なりと日に向ひて禮拜することお早うの掛聲の如くせん、本年ハ如何、何ぞ團十郎以上たるを望まざるといヘバ團十郎以上の者梨園に無し法律ハ既往に遡ぼらずといへるが如く見立も以上にハ及ぼさゞるものなるべしとて笑けり
明らさまに云ヘバ南翠先生のことなれども姑らく或大家と呼ぶべし其或大家の全體と菊五郎の一部分とハ頗る能く相似たり大火あれバ大火を敍し洪水あれバ洪水を演ず未曾て當氣あるを免れず或者が社會を感動せしめたるの機に乘じて飽迄喝采を貪らんとする者なりと友の云ふを我も然りと答へて譬ふれバ松薪の燃熾りたるを見て鉋屑を投ずるものなり其火強しといへども是れ松薪の強きなり鉋屑のみにてハ斯ハ燃ざるなり又譬ふれバ親父の死したりとわめく所へ姪の死を報ずるものなり其歎甚だしといへども是れ親父をいたむの甚だしきなり姪のみにてハ斯ハ哭せざるなり卑怯なる藝術ぞと云ヘバ風船乘の所作事[しよさごと]或大家ハ羨ましかるべし竊に思ふ近日議事堂燒失より説起すの小説顯るべしとて笑ひけり
デモといひダラウといふ何れも決斷なき語なり「そも/\先生」と申す人のありて物を論ずるに、でもある、でもない、でなくもありません、でありませうか等曖昧なる語を以て尾を結ぶを例とせり唯一箇の「も」の字を省くを得ずんバ寧ろ論ぜざるの優れるに如かずやと云ヘバ君も亦其ずやを也に改めよと友の笑ひけり
底知らずの湖ハ氣が知れぬ湖なりといふ者あり飛ばず鳴かず逍遙先生いつの日か世を驚かさんと云ヘバ先生飛ぶを忘れたるにあらず飛ばゝ人の見ん事を恐るゝなり鳴くを忘れたるにあらず鳴かバ人の聞んことを恐るゝなり遂に出ざるべしとて笑ひけり(未完)
(續)
英のパアネルこのごろ發狂したりといへり遲きことかな、風土氣候の異なる故にもあらざるべけれど看よ我邦の如きハ唐宋詩醇をほんの一行借て讀て日に早く發狂するあり美と善の講義を只一夜聞噛りて已に早く發狂するあり世を舉て瘋癲患者なりといふも敢て誣言にあらずといヘバ君生れて二十有三年二箇月最早發狂したるかと友の笑ひけり
誰それの何々論長く拙く退屈呼びの妙劑なり金砂子のすこしなるハ床しけれど大鋸屑の雨の如く降來らんハ閉口なりと友の云ふを我いさゝかも退屈せず却て其勞を謝すといヘバさりとてハ辛抱強し何故と問ふに一向初めより讀ざれバなりと答へて笑ひけり
「鎌倉武士」を評するに新二ハ得知よりもまづしと一言以て之を掩ひたるの大活眼家あり我鎌倉武士を見ざれバ其作のよしあしハ知らざれども新二の鎌倉武士ハ得知の何々より劣れりといはゞ尚恕すべし僅に其一斑を取て全體を評し、言改ゆれバ其一年を以て生涯を評し然かも其物を論ぜず其人を論じたるが如き傾きあるハ忘れても公平なる批評家のなすまじき事なり我れ新二と得知の優劣に就てハ決して口を入ざるべしと雖も彼の謠を聞たる者ハ知らん同じく聲なるも聲の出るや二種あるを、何が故に小さんたるや圓遊たるやと云へバ美人ハ悉とく厚化粧なりと信ずる者ハ未だ浴後の美人あるを知らざるなり鳥肉ハ悉とく相鴨なりと信ずる者ハ未だ鶉あるを知らざるなりとて笑ひけり
裸體ハ毎年一月のことゝ定れり寒[さぶ]かるべし/\美妙ハ之を畫にし紅葉ハ之を文にす、來ん歳の首めにハ芝居にやすべきとて笑けり
石川五右衞門凌雲閣に登て曰く春宵一刻値千金と友のむだ口を敲きけれバ我直ちに応へて最明寺時頼殿鐵道馬車に乘て佐野源左衞門に逅ふといヘバ束髮の祇王祇女硝子窓に韻文を書殘すと友ハ大口あいて笑ひけり
韻文とかいふもの近來屡々お目に懸れど是果してまことの韻文なる乎そゝかしく見バ下手の琵琶歌[びはうた]が出來たる迄なり都々逸ぞ粹なるべきと云ヘバ友ハ俄に濁聲[だみごゑ]あげて「劉伯倫や李太白酒を呑まねバアリヤたゞの人」唱へ了て笑ひけり
大家號佩用を許されてよりおのがまゝなる紅白の旗を文壇に飜へすの勇士數多あれども詰る所彼等ハ陳勝呉廣たるのみ關に入て王たるの劉項其人ハ尚この後にあるべし、縱し今日旭の昇る勢ひあるも追てハ粟津畷の露と消えて而して後鎌倉に月ハ照るなり文壇の英雄若し今を限りとせんにハ如何許り心憂き沙汰ならん、たのむハ彼等の漸次自滅することなり逍遙學海思軒ハ已に九分方自滅せり御室美妙ハ已に八分方自滅せり紅葉露伴ハ已に六分方自滅せり篁村南翠に至てハ一旦滅したるものゝ纔に餘焔を吐くに過ざるなり豈其他を問んや彼等皆滅して後大豪傑の出るあるべしと云ヘバ鴎外ハ如何と我言漏したるを友の態とらしく問懸たり我れ考へて無論鴎外も竟にハ滅すべきなれども消つ明りつ壽命ハ稍長かるべし是れ其大いに燃ることなけれバなりと答ふるに偖ハ松杉古りたる山寺の燈明なり鴎外の怪物たる所以こゝにあるかとて嘯くが如く笑ひけり
藝娼妓の賤きハ固よりなれども彼とても用無きに世に居る者ならず我謹んで藝娼妓の事を記して營業的得意とするの新聞記者に請申したきことあり六箇敷事にハあらず藝娼妓なる者の早晩足を清めてより後の生活の振合を調査したきことなり奧樣となり御新造となり内儀となり嚊となりお圍[かこ]となりお妾[めか]となる種々雜多なるべく或るハ東へ西へ流れ渡りて眞菰の裡に葬らるゝもあるべく或るハ右へ左へ漂泊ひあるきて乞食するもあるべくおのづから竝々の子女と其終りを異にするや必せり奇を好むに似たれど我れハ此等一切の身の落着きをたづねて統計的に調査せバ或問題に就ての參考として利益あるならんと思ふといヘバ友ハ冷かに我を諦視[みつめ]て請ふ先づ小説家の生立からと笑ひけり
君の談ずる所を聽けバ世間盡とく愚にして君獨り賢なるが如し然れども君を稱して多才多識の化身なりといひし者あるを聞かず異むべしと友の徐々[そろそろ]混返しはじめたるを我亦無學無識の娑婆の一人なれバ幸ひに舌も動け手も動け萬一すぐれて學あり識あらんにハ十年の昔既[はや]血を吐て暗き族路をたどり居たるべしとて笑ひけり
玉篇の末の方を披かバ意外に平凡なる音と訓とをもちて其體其畫の甚だ込入たる字あるを見るべし這種の文字我と能く似て終に用ひらるゝ時無しといふを友ハ遮りてされども其玉篇を編まれたる時ハ必要なりし即ち一たびハ世に出たるなりとて笑ひけり
望といふ望の全く絶たらんにハ此世程用事なき所ハ無し早々お暇申すべきなれども我も未練のありと覺えていつ迄か借錢することよといふに又々お株の始りぬさらバ我よりお暇と友の立つを戸口迄送りて笑門福來再た參られよ笑はんといヘバ笑ふてつらき日もあるべし嚋昔[いつぞや]、樣と船に在て二時過の月見たる勇氣の今ハ君も失せたる如し向河岸の若旦那老たるかな四天狗酒顛狗にあらざるか一浪士何者一老士かと別れに臨んで猶ほ笑ひけり(をはり)