『日本の聖書』海老澤有道 講談社学術文庫

「文語訳」とは違ふ古い時代の訳が面白い。

  • 井深梶之助訳『馬可伝俗話』。明治十四年。(p322)

みな食べるときに、イエスはパンをとって祝し、それをさいて、お弟子たちにあたへて、おふせられますには、とってたべよ。これは、わが身[からだ]である。また杯をとって謝し、おあたへなされましたれば、みなその杯から飲みました。イエスが、おふせられますには、これは新約のわが血で、おほくのひとのために、流すものである。われ、まことに、なんぢらにつげん、いまよりのち、新しきものを、神の国でのむ日までは、葡萄でつくったものは飲むまい。

  • パームの口語訳『路加伝十五章』。1876〜1882の間の成立。(p325)

さて、税吏[みつぎとり]と罪ある人が教をきゝに、耶蘇のところへきたのを、パリサイ宗の人や学者たちが耶蘇ハ罪ある人と納って[まじはって]食事をするなどゝ謐ひて[つぶやひて]をるのを、耶蘇ごらんなされて、譬で教なさるに、もし人に百疋の羊があって、そのうちの一疋でも失なったならば、あとの九十九疋ハ、そこにのこしおいて、その亡した羊を、みつけるまでハ、ほねををって、それをたづねぬものがあろふか。そこでみつけだせばじぶんの肩にかつひで家につれかへり、友人[ともだち]や近隣[きんじょのもの]をよびあつめて、私ハなくした羊をみつけて、つれかへりましたから貴公[あなた]も私とゝもに喜祝[およろこび]くだされといふハ、必定のことじや。それとおなじく、罪ある人が悔改れば、悔改るにおよばぬ義[ただしき]九十九人にも、まさる喜が天にあるぞとをほせられた。

  • 『スピリツアル修行』の第二部。明治六年刊。(p349)

誠に示す也。汝達之中より我を渡すべき人壱人有と宣へハ、御弟子たち大きに悲しみ、いかに君、某にて候やと申されけれバ、ぜずす我と共に鉢に手を入るゝもの渡すべき也。金言に見へる如く童身[びるじん]の子渡さるべきか、渡さんものハ不便也。されハ此人生れざるにしかじと宣ふに、ジュダスいかに師匠、我にて有やと申けれバ、ぜずす御辺云るゝ也と宣ふ也。

パンを取上、文[もん]を唱へ割たまひ、御弟子達に賜り、是ハ我肉身なり、服せられよと宣ひて、又かりすを取上たまひ御礼ありて御弟子達に下され宣ひけるハ、各是を呑れよ、汝達[なんだち]と数多之人之科を送るべき為に流すべき新しきテスタメンと[原文のママ]之我身之血なり、汝達我を思ひ出す為に如斯[かくのごとく]致されよ。御親之御国にて汝達と共に新敷酒を飲給ふべき日迄は此さけを飲べからず

  • 『日本思想大系』25は「キリシタン書、排耶書」。
  • 明治十三年刊の『耶蘇言行紀略』。心ノ中ノ貧シキ者ハ真福ナルモノゾカシ。如何ニトナレバ其人ハ天上ノ国ヲ得タレバナリ。(p352)