『ことば談義 寐ても寤ても』

  • 「まえがき」より。

いわゆる常用漢字には、それなりの使命もあり、またそれなりの効用も認めなければならないけれども、その外側に拡がっていた、日本語の過去の広大な眺めを省みることは、人の心にとって、全くの無用であるわけがない。
尖端的な世界に、古典的で確立した世界が隣接して共存することは、尊重すべき、人間的な無用の用とでもいうべきであろう。

  • 「蚊帳の外」は考えてみれば、ずいぶんエロティックな場面を連想させることば普通それが唄われている端唄なんかの世界までもっていく場合のことだけれど。(p19〜)
  • 用字について

たとえば、「ランボウ」という表記で、「乱暴」のほかに「乱妨」があります。もっとほかにもあるんですが、もし元の例の「乱妨」がいちばん正しいと考えると、こうした表記はもちろん現代に合わなくなってくる。そうすると、書き換えだというような言い方をするわけです。ところが、今まで非常に厳密な意味で規範であったものを、ある政策のために人為的に書き換えたというのと、「乱妨」が変化してきたのとは違うと思うんです。ある種の歴史的自然さがあるわけだから、それは認めた方がいいと思う。(p23)

  • 「校合」について

ぼくが学生のとき、橋本進吉教授が「「こうごう」と読むと別の意味の語になりますよ」と言ったんですね。そのとき「フフ」と笑った人間と、全然笑えなかった人といるわけです。つまり、「こうごう」というとsexual intercourse(交合)と音が同じだから、そういうふうにとられると困るから、昔通り「きょうごう」と読みなさいと、書誌学的な知識を教えるときにちょっと言われた。
だから、「こうごう」の意味が分った者は、謹厳な橋本さんにしては珍しく余計なことをおっしゃる、と思ったわけです。(笑)(p43)

  • 「四の五のいう」は中国の俗語「支吾する」が元ではないかと二三十年前から密かに推測してゐるが傍証が出てこないとのこと。(p146)