山田俊雄『忘れかけてゐた言葉』(三省堂)

連載「詞苑間歩」とは別の、昭和三十八年から平成十一年までに書き溜めた随筆。一篇の名を以て、全体を代表させるつもりだったが、後になって何とそれは著者の記憶の中にのみあった幻の篇名だと分ったとのこと。

  • 言葉のことで乱暴に「誤り」と決めつけられた経験について(p65〜)。

私は言語の正用、誤用について言語学者のことばによって学んでからは、これらの記憶は、時折に回想するひそかな傷手といふおだやかなものに変ってしまった。[略]、独断の他人に与へる影響の大きさを測ることは今もって十分考へてみるべきだと思ふ。また、独断とは何かを、大げさにいへば、批判的哲学の元祖たるカントと共に味ふことは大切なことだと思ふ。ましてや、迷妄なる想念の開陳は、病人としてならば許されようが、普通人の態度としてはあまりに節度なき所業と思はれる。

  • 電車内で短い時間に新聞や週刊誌に読み耽ることへの違和感。著者には「読む」といふことの本来の意味は失はれて、ただ「見る、そして感覚的に反応する」それだけが残ってゐるやうに思はれる「読む」と見せかけた受動的服従の不毛を私は嫌悪するのである。とのこと(p82)。
  • 親戚が毎年送ってくる大きな板チョコの手軽な割り方(密封された袋の封を切らずに割って、それから開ける)が自分の独創ではないことに気づいたことから思ひをめぐらした上でのコメント(p87〜)。

経験によって得られるもの、伝聞によって知った方法や考へ方は、多くは、それによって省略された労力や思索がどれほどの量に上るか、意外にそれには気づかずにゐるのが普通であらう。

蟹の脚も木の棒で叩き割るアメリカの風俗に比べて、日本人が手先で割箸をうまく操って実を出して食べるのは、彼の人々には異様な方法であらうが、一つの文化的な傾向として評価することができる事がらと云へるだらう。しかし、その文化的な傾向は、日本人一人一人の生得のものではなくて、日本人社会の伝統にもとづいて人によって好機があれば汲み取られて維持されてゆく方法である。

  • 山本夏彦が書いた「水無飴」を懐かしがる文を読んだことから、著者自身の子供のころの水無飴についての思ひ出(p102〜)。紀元節の折りに父(山田孝雄)が水無飴をくれてその由来を語り聞かせた。話の内容よりは兄弟姉妹一人一人に飴をまるまる一箱づつくれたことが著者の記憶には鮮明なのだが、今思ふと、父は、日本書紀を読んでよくそれに通じてゐたから、神武帝が水無しで飴を造ることによって武力兵力を用ゐずに坐ながら天下を平安に導くことの保証となることを祈った点を、銘記すべきこととして、紀元節のおやつにわざわざ水無飴を提供したのであらう。

父は、建国祭といふ行事を認容しなかった。父が独自に立てた説として、祭政一致の本義からみて、国の祭は、天皇の主宰するものであり、政の側の大臣や官僚や軍人が「祭」と称して、無用の国家的行事を捏造したことをひどく憎んでゐた。それは小学生の私が、建国祭の行事を嫌ふのと、全く異なる淵源から出た話であったが、その炬燵の中では、妙に気が晴れる思ひがした。

  • 亡くなった「厨川さん」(厨川文夫)の思ひ出。『ベーオウルフ』の改訳を(平家物語のやうな)古い時代の日本語の文体でしようと思ってゐて果たさなかった。
  • 有名な植物分類学者の牧野富太郎は「忘れな草」を「忘な草」と呼ぶ方が正しいと主張した(終助詞「な」は終止形接続)が、それに対する異論。近世以来、一段活用動詞は連用形接続することがあった。近代の文語でも例へば薄田泣菫が「似るな」でなく「似な」、「覚むるな」でなく「覚めな」としてゐる例がある。いはば近世以来の慣用といふ範囲の中のことである。とのこと(p168〜)。
  • (著者は「大正生れ」だが、立川文庫や「赤い鳥」に馴染んでゐたわけではない、といふことから)

昭和以前の世代を、明治を除いて一括し、大正生れの世代などとおしなべてしまふのは、一人一人の幼少年時代の育ち方だけで見ても極めて粗雑なやり方である。このことは、最近の近代文学史家についても、現代史について発言する所謂評論家についても、同様に注意を喚起したいところで、時代考証のでたらめな演劇や小説が、読者の興をさますのと似て、近頃私は、途中で捨てたくなるやうな半可通の文章に屡出合ふ。(p179)

  • 楠山正雄『日本童話宝玉集』の思ひ出。
  • 『近世子どもの絵本集』(岩波書店、1985年)を見ると、「花咲か爺」や「舌切り雀」ではなく、「花さかせ親仁(ぢゝ)」「したきれ雀」となってゐる。これならば文法的に納得が行く、とのこと。
  • 尾崎雄二郎『漢字の年輪』
  • アナクロニズム」は「時代後れ」ではなく「時代違ひ」(p187)。
  • 昔、二三の友人と共に、血気に任せて非力を顧みずに造った『新潮国語辞典』(p187、平成元年の記述)
  • 福澤の表記

福澤諭吉は、進歩派の人で因循姑息ではなかったらしいけれども、啓蒙書に見える振仮名は、どうも一貫しない。しかし私は一貫しない現実そのものが、むしろ因循姑息の反対の文明開化の本質を、よく表してゐるものと観念すべきであらうと、考へるのである。森鴎外のやうに、過去と現在とをつなぐ、日本と外国とを調合する、そして西洋と東洋とを均衡させようとする、いってみれば極めて開明度が高く、現実社会の実利のはるか彼方の高踏の世界に達した人には、無縁らしく見える、別の実用の文字の世界が開かれてあったのである。

  • マリア・テレジアのことを書いた或る新書の言葉遣ひについて(p210)。

「あまつさえ」を「あまつ」と「さえ」に截断する言語習慣が、近い過去に生じたことかと思ふが、すでに学術の世界に住む人の日本語として、私の眼前に、現にあるといふことのが、私には恐るべきことと思はれる。

言語の変ってゆく速度、変ってすぐ、文字になって定着してしまふ無秩序が、今現に、私どもの身辺に起ってゐるのである。

  • 稲森道三郎中勘助の手紙』
  • 中勘助銀の匙』。漱石が口を極めて賞めたやうに伝へられてゐるその作は、今の私にとっては、美しかった逝きし日本語の姿を蘇へらせるよすがとしては、いたく慶ばしいものであった。とのこと(p216)。