『金田一京助全集』第一巻(三省堂 1992年)

(前に読んだもの。書きなほすつもりだったが面倒になったのでそのまま)
目次

  • 1 言語学・言語一般
    • 言語学
    • 言語学原論を読む
    • 言語と民衆
    • 民衆の言葉
    • 四つを数えるまで
    • 将来の言語活動
    • 我感『音韻論』
    • 言語及び言語学
    • 禽獣のコトバと人間のコトバとの境
    • 言霊をめぐりて
    • 国語と民間伝承
    • 仮名遣と発音符号−文字と言語−
    • チェインバレンと日本言語学
  • 2 系統
    • 国語史 系統篇
    • 日本語−起源と其の成長−
    • 国語系統論
    • 日本国語の生長
    • 【資料】日本国内 諸人種の言語

言語学原論を読む(昭和三年三月)

ソシュールの著書(訳は小林英夫)の書評。

  • ステーション→ステンショ(裁判ショ、市役ショ、休憩ショにつられた)
  • トラホーム→トラホー目(近目、鳥目)
  • 死ぬる事→死ぬ事

このやうな変化を、

昔の人は訛といい誤とし、旧派の言語学派も偽類推と呼んで否定していた。新言語学派が偽と呼ぶことを捨てると共に、『類推』を以て、言語を動かし進める一大動力として始めて正視した。{要約、それを継承したソシュールは一歩をすすめて}、此は『全く一般的なる事実であり、言語の正規の働きに属するものである』として、『類推』は『創造』であると叫び、『言語創造の原理としての類推』を説
いた。

言語と民衆

民衆の言葉

庶民の使ふいい言葉と知識人の「学者ぶった」言葉を挙げてゐる。引用すると長いので箇条書にする。

  • ○メガネ ◎ムシメガネ・トオメガネ
  • ○吊橋・反橋 ×陸橋・跨線橋(誰もこれを使はず「ガード(GIRDER)」の方を使ふ)
  • ○フミキリ
  • ×バンソーコー・ホータイ(ちょっと漢字で書けない)
  • ×ガンソー*1 ○ウガイ
  • ×硬筆 ○ペン
  • (遊び) ○アヤトリ・カクレンボ・ブランコ ×遊動円木
  • ×挙踵半屈膝(体操)

鉱物○みかげ石→×花崗岩 ○ゴマ石・カド石・アメ石
×飾光 ○花電気(「イルミネーション」には負けてしまった)
○辻→×十字路・交叉点
○道ばたの溜り→×安全地帯
○コーバン→巡査駐在所

以下は金田一自身の経験。

アイウエオの唇の写真のを転載した時に、{略}「母音の発音に於ける唇の開合」では、標題として長過ぎるなあ「母音発音に際しての唇の開合」かなあ。何だかまだ落付がわるいなあ、と散々困りぬいていたら、書肆は不思議そうに私の苦吟の顔を眺めて「母音の唇」じゃいけませんか? と来た。私は唖然とした。唇は人間の唇で母音に唇なんぞありはしない。だから、そんな云い方は思いも寄らなかった。併し同時に、それだから紛れが無く母音の唇で結構わかるのだった。私は今更驚きながらそれでいいと承知したのであった。余り厳密に考えるから、そうなので、標題だって、物の名だって、「定義」じゃないんだから、
わかるだけで構はないのに何を悩んでゐたのか、といふ話。
最後に、
芸術な創作に必要な単純化ということは、或程度まで童心に近よる。物へ名を与えるのも最も簡単な「表現」だから、或程度まで童心が必要だから、康煕字典の中や、概念ばかりいじっている専門家の頭は却って駄目で、個人意識の集って融け合った結果童心に似て来る民衆意識の方が往々にして、却ってよい名を造り出すわけだったのである。

四つを数えるまで

三つまでしか数へることを知らず、それ以上はいくらでも「たくさん」といふ民族がゐる。著者は自分の子の成長を見守ってゐる内にやっとこのことを納得することが出来た。
三まではたやすく覚えたが、もう一つ加へた四ではなかなか手間取った。

「三つ」は、両者の間に、今一つ置いた数であるから、容易く一まとめに纏めて認識しやすい数形式であるので、幼稚な頭にも「二つ」からすぐ「三つ」は覚えられたのではあるが、四つとなると、その第四のものを、どこへ収めて考えまとめてよいか、全然形を新しいものに易えて考えることができるまでは収りがつかず、複雑感を与えて、雑多、則たくさんの概念の方へ歩み寄って行ってしまう。
単数複数の区別は、やはり、一つより上を一括して多とした原始的思想の遺物であり、双数の考は、{略}二個一対の、左右対称のものの存在に特に興味を感じた心に発足したものであろう。三数は即ち、上中下或は天地人などという様な、両方の中間にさらに一つを置いた{略}三の考の、四以上を多として之から区別した意義の表れであることが云うまでもないのである。要するに素樸な数意識のそのままの発現が偶々言葉遣の上に影を止めているのに過ぎないことがわかるのである。特に高尚な、起源でも由来でもないのである。

将来の言語活動

口頭語と文章語との性質(役割)の違ひを指摘した上で、

過去に生じた言文二途は、文字に形を残して保存された古典に対する愛慕の感情と、時としては無自覚・無意識な尚古癖・事大主義などの手伝いもあって生れて来ていた、寧ろ不自然な人為的文語のために発生した結果であった
から「言文一致の叫び」が起るべくして起った。
いま*2新しく萌芽しつつある分化の動きは言文一致に逆行するものではなく、必然的に生じるものだから峻別せよと言ふ。
それはその通りなのだらうが、どうも文語の「事大主義」の面のみを強調しすぎてゐるやうな気がする。

国語と民間伝承

  • 語といふものはそれが指す事物の顕著な一面を取って仮に代表させてゐるに過ぎない。それでも通じるといふ指摘。
    • はさみ 「はさんで」切るといふ一つの特徴だけを取ってゐる。
    • 「太刀」 断ち・截ちの意味であらう。
    • 「大小」 大小長短一対の刀。
    • 「すずり」 「墨磨り」から。

日本語−起源と其の成長−

英語の影響の甚大であることを強調して、日本の文章法をまで変じたと云う人がある。そしてその例に「事程左様に」「だけそれだけ」「何と喜ばしいことよ」などを挙げる。然し其の所謂文章法は、文体のことであって、シンタクスのものではない。寧ろ修辞法上のことであって、文法の上のことではない。
在来の文法を破壊するやうな根本的な「異変」ではないといふ指摘。
丁度和文脈の雅文の他に、漢文直訳的文章の生れたことが同様の問題である。「夫れ然り豈それ然らんや」など。

日本国語の生長

ヨーロッパの諸言語には古代の語尾変化がなくなったことを、古い言語学では言語の堕落だとしてきたが、イエスペルセンはこの考えを根底から覆し、


古代のゴタゴタした語尾変化を罷めてその代りに関係専務の助辞で簡明に表していく行き方は、寧ろ進歩であって決して堕落ではない。語尾変化の方法は未開の種族もする所のものであって、ギリシア・ラテンの古典語に於ける美しい語尾変化も、要するにそれの極度に発達したものにすぎないのだ。野蛮時代の遺物にすぎないから、近代語がみなみなこれを罷め出したものに他ならないと喝破して学界を聳動した。

*1:「含漱」か

*2:当時