(いつものことながら)面倒なので引用元には行かず、今のところ闇黒日記の方しか見てないけど。

日々の業務であつかう報告書なり企画書なりを、奈良や平安の伝統をふまえた規則を覚えた上で書かなければいけないなんて理屈には、いまさら誰も説得されはしないだろう。

この部分が文章全体でどれほどの意味を持ってるかは読んでないので知らないが、以前よそで似たやうな意見を読んで気になってゐたので、その疑問をこの機会にちょっと書いてみよう。
「新仮名で育ったからいまさら別の規則なんて覚えるのは面倒だ」ならばまあ分るし、「旧仮名の発音通りぢゃない部分は、奈良や平安の発音に基いてるからなんだ」といふのもまあその通りだらう。ところがこれをまとめて「奈良や平安の伝統をふまえた規則を覚えた上で書かなければいけないなんて理屈には、(略)」とすると、途端に「千年前の仮名遣」みたいな怪しげなレッテルになってしまふから不思議だ。
この手のレッテルは「旧仮名はオレが発明した」といふ珍論だけで簡単に粉砕されるんぢゃないかな。

柳瀬尚紀『翻訳困りっ話』河出文庫
一部で旧字旧かな表記なのだが、p56に「談合しやうか」と間違へてゐる。
p92、

鴎外の「大発見」も面白いが、「金貨」という短篇がこれまた面白い。「近処の家で、雨戸をがらがらと繰り明ける音がして、続いて咳払の声がした」という最後の一文の効果は絶妙である。読んでみるとわかる。読んでみないとわからない。こんなセンテンスに出会って、それをこんなに効果的な日本語に翻訳できたら、それこそ翻訳者冥利というものだろう。

ドストエフスキー『鰐』も鴎外の翻訳で読んで、ものすごく新しい感じがして云々。

持ってゐるのを思ひ出して高島先生の「幸田露伴支那―『運命』と建文出亡傳説」(「文學界」2000年2月号)をまた読んだ。正仮名でいくらか正字もある。引用文はさすが(と言ふより当然)正字正かな。『しくじった皇帝たち』はまだ買ってないけど、どうだらうか、やはり新仮名になってしまってゐるのかな。
それで『運命』をもう一度読んでみる気になった。『明史紀事本末』などと併せて読んでみよう。