五月二十日。小松英雄『いろはうた』の件。
旧版は「中公文庫版」ではなくて新書なのでは。
旧版を読んだことあるはずだがさういふ問題点があったのを覚えてないな。読み流してしまったのか。我ながら情けない。ただ、「てふてふ」(だけ)を挙げて「旧仮名は問題外」といふやうな例の陳腐な批判(?)をしてゐたのは覚えてゐる。読んだときに「この程度の人なんだな」と思った。
極端な保守主義。レッテル貼りをして「勝つ」情けない御方なんだなあ。
小松の別の本を何冊か前に読んだが、言葉についての「保守派」には嘲笑的な人のやうで、その点全然共感しなかったのだが、『徒然草抜書』『やまとうた』での見事な解釈には大いに感心した覚えがある(具体的に思ひ出せないのが情けない)。
庶民なりに、口語に即した表音性の強い表記を捨てなかった云々。正かな派批判では往々にして「彼らは表音化・表音性を認めない」と思ひ込んだ上で批判が行はれてゐたみたいだが、或いはこれもその主旨かも知れない。それで「表音性の強い表記」の一面を強調してゐるのかも知れない。まあ読まずに臆測しても仕方ないが。
メモ。「G.H.Qによる強制」云々。
十五日最後の項。

崩れた口頭語については假名遣を喧しく言ふ事もないだらうと思つてゐる。文章語で書くなら「だらう」は「だらう」だし――意圖的に口頭語を書留めるから「だろ」になる。

「極端な保守主義者」(笑)である人でさへ表音性・表音化を認めてゐる、その証拠。アンチ正かな派は往々にして「彼らは表音化・表音性を認めない」と思ひ込んだ上で非難するみたいだが。「私は露伴派を名乗ることにする」とか言ってみよう。
メモ(十四日)。ドナルド・キーン「鴎外の『花子』をめぐつて」が正字正かなの原稿だつたらしい
十三日最初の項。「文語などには適用しない」といふ例の方針かな、とも思ったが、それなら「いざない」や「よみがえる」だって同じだしな。
メモ。

世に出てゐる本について、前は隨分いろいろ言つたものだけれども、最近思ふのは、最うどれ讀んでも別にいいやと云ふ事。どんなに非道い物を讀んで非道い知識を身につけてしまつても、良いぢやないかと――ただ、さうした非道い知識に基いて作つた非道いサイトが、批判された時、反省できる人ならば、と云ふ條件がつくけれども。とつかかりなら何だつて良いんだよ。それがいいとつかかりなら幸せだと言ふのだらうけれども、別にろくでもないものから初めて、叩かれて叩かれて叩かれ捲つて、それでいい方向に進歩して行けるのなら、それはそれで寧ろ良いのでないか。結局、「叩かれたくない」と云ふ及び腰の姿勢から、「ぢやあいいスタートの切り方教へて」と云ふ要求が出て來るのだ。人はもつと批判と云ふ事の意義を認めた方が良い。

メモ。「柳田國男の文章の味」。
追記。文字化け直しました。御指摘ありがたうございます。