田中克彦はレッテル屋(これもレッテル貼り)

例によって、正字・正假名使ひの爲のアンテナ経由で。

田中克彦『ことばと国家』を引用した後でかう書いてゐる。


現代日本の言語エリートのことばあそびの趣味」とは!痛快じゃないか。
 丸谷才一の文ていつも「なんなんだよ」って感じていたし、文藝春秋のトップはいつも阿川弘之の「かなづかひ」で書かれた文ではじまるから、なんかまず入口の前で自動ドアがしまっちゃうような感じがしていた。
あれらは言語エリートっていうわけなのか。
エラソーな感じがいやだったのはそういうことだったのか。腑に落ちた。

まあ要するに自分の気に入るレッテルを本で見つけて喜んでるといふわけだ。かういふ人はこれなんかを読んだらどう思ふんだらうな。


 ……と、以上が、本書を読む前に私が抱いていた旧かなづかいに対する「偏見」だ。もう少し言うと、当方は、旧かなを使う人々について、「偏屈者」「復古主義者」「国粋鉄砲玉」「気取り屋」「ざあます文化人」「封建人格」ぐらいな感じを抱いていたわけだ。

評者はあまり「言語エリート」(爆笑)らしからぬ人みたいだから、さういふ人の支持は説得力があるんぢゃないかなー。

それにしても、また進歩したかなづかいを、すでに死滅した言語のかなづかひに合わせようとする、現代日本の言語エリートのことばあそびの趣味といふレッテルの見事さ(爆笑)はどうだらう。実在する正かな派でこの「批判」が当る人が本当にゐるのだらうか。「五十年(百年?)前の愚論」とでも評せば十分だ。