福沢諭吉

「文字之教」目当てで借りた。作品解説は柳田泉

上の本と間違へた。「福翁自伝」(小泉信三)「内村鑑三」(森有正)「岡倉天心」(亀井勝一郎)を収録。 解説は丸山真男
以下は丸山の解説。

[略]内村は晩年に近く「矛盾について」(英文、聖書之研究、大正一三・八)という一文のなかで、「詩人ワルト・ホヰットマンが曰うた事がある『私に矛盾が多い、それは私が大きいからである』と、其如くに神は最も大きい方であるから、矛盾の最も多い者である、彼は愛し給ふ、又憎み給ふ、彼は愛であると同時に又燒盡す火であり給ふ、そして彼の眞の子供はいつでも克く彼に肖る者である。パウロ、ルーテル、クロムウェル、彼等孰れも何たる矛盾の組合せでありしよ」といつているが、これは内村が問わず語りに己れを語つた言葉とも見られる。内村にして然り、たえず状況的發言をした福澤や、ロマンティックな詩人天心から相矛盾する命題をひろい出すのはいとも容易である。しかしまつたく崩れを見せない人間が人間としての魅カに乏しいように、形式論理學の教科書のように整然とした思想が必ずしも思想として價値が高いわけではない。といつてその場の思いつきのたんに雜然とした集合からは、どんなにその思いつきが斬新でもオリジナルな思想家は生れないたろう。この三人の言論と行動には、あらゆる矛盾を貫いて執拗に響きつづけるある基調音があつた。まさにその何ものかが、彼等の矛盾にかえつていきいきとした生命力とはりつめた緊張を與えている。本當に個性的な思想とはそういうものではないか。もつとも個性的であることによつてもつとも普遍的なものを藏する思想こそ學ぶに値する思想である。と同時にまたそれは「學ぶ」に容易ならぬ思想でもある。もつとも思想家らしい思想家のエピゴーネンに往々もつとも思想家くさい思想業者がうまれる所以であろう。

「魂[ゼーレ]が語るや否や、あゝ、魂はもはや語らず」とシラーがいつている。思想がひとたび思想家の骨肉をはなれて「客觀的形象」と化した瞬間に、それは獨り歩きをはじめる。しかもそれがエピゴーネンの手にわたつてもてはやされ「崇拜」されるようになると、本來そこに堪えられていた内面的緊張は弛緩し、多角性は磨かれて圓滑となり、いきいきした矛盾は「統一」され、あるいは、その一側面だけが繼承されることによつてかえつてダイナミズムを喪失して凝固する。内村がその遺稿で「私は今日流行の無教會主義者にあらず」といつたように、福澤や天心も今次の戰中戰後に生きていたならば必ずや「今日流行の」福澤主義、また天心主義にたいして、憤りとまた若干の諦觀をもつて同じ感慨をいだいたにちがいない。著名なマルクスの嘆聲は、かくしてあらゆる偉大な思想家が己れの思想のとどめがたい運命的な歩みを目撃した時に洩らすつぶやきではなかろうか。