『漢字百珍』杉本つとむ 八坂書店 2001年

常用漢字」には反対だが略字・俗字は「死んだ正しい文字よりも価値が高い」と言ふやうな人。(『異体字とは何か』で述べたやうな)漢字廃止論の気配が無いのだが、あの後考へを変へたのだらうか。

筆勢のしからしむるところが、異体字成立の一契機になることはすくなくありません。行書体、草書体から再度、楷書体へとフィードバック、リサイクルすることによって、新しい異体字として活用されるわけです。[例、恥→耻](p69)

すこし横道にそれますが、わたくしがはじめて北京に日本語を教えにいったとき、意外にはやく中国語を覚えたものですから、いささか面はゆいのですが、中国人からもおほめにあずかりました。片言ながら自分でもマーケットなどで実地にためしてみたのですが、うまくいくのに意を強くして、中古自転車を購入、北京市内を走りまわりました。[略]そしてこのようにはやく覚えることのできた要因のひとつは、実は小学校の国語の授業で習ったことにありました。相談をサウダン、一葉をイチエフ、様子をヤウスと書く、いわゆる〈字音仮字遣い〉を学習していたことです。現代中国語の発音を類推するのに、この字音仮字遣いの知識が有効だったのです。わたくしは単独行動をしながら、つとめてこの字音仮字遣いを想起し、必死に中国語を覚えていったわけです。日中は同文同種という錯覚ははやく捨てて、客観的に、かつは外国語として漢字・漢語を認識しなければならない――この思いをいやというほど認識させられたのがわたくしの短い北京滞在でした。しかし反面、過去の教育のよさも再認識したわけです。子どもには何がやさしく、何がむずかしいかを親や大人の立場で変に先取りしないことです。子どもの可能性は、おとなにとってのむずかしさなど容易に凌駕してしまうものです。教育がこの芽を摘むようなことは誤りです。創造的教育こそが重要なのです。(p150)

元禄期までは「牢人」と「浪人」とは異なる使い方だったが、それ以降、次第に区別が無くなり「浪人」が主となって行った。前者は一度仕官したが主家がつぶれたもの、後者ははじめから一度も仕官の口(定職)についたことのないもの。(p38)
「発」のなかは旧字のなかの右側が(弓ぢゃない方)変化したもの。(p79)
「はなし(話)」は十九世紀のもの。古代からずっと「かたる」が中心だった。(p88)
カラダは十七世紀まで、卑俗な語として、ことに女性の口からはのぞかれていました。(p139)
『学研漢和大辞典』について。どうもこの辞典の解説はしばしば眉唾なところがあって要注意のようです。(p162)
「和同開珎」の は「寶」の略字・異体字。根拠は二つ。熟語として「開珍」は意味不明だが「開宝」ならば「開運」にも通じ富国の状態を告げしらせるにふさわしい。古代シナ北宋の年号に「開宝」がある。(p203)
略字をふくむ広義の異体字には、貨幣の場合(狭い部分に刻する)のやうに、物理的な面を契機として生み出され、一般化したものが多い点を心得ておくことは、異体字解読に有効です。(p204)

今の日本の教育は何でも易きについて、伝統的な読み方――俗に読みくせなどといいますが――をないがしろにします。早急や重複も[ルビあり]、ソウキュウやジュウフクと誤りが正式になっています。学校できちんと教えねばなりません。(p82)

これは略字を(過剰に)尊重する態度とやや矛盾するやうな気がするが。

常用漢字は他の漢字でもそうですが、本字から一点を減じている場合が多いのです。なんとも姑息かつ場あたり的で、漢字字体に無用の混乱を引きおこしているようです。わずか一点のために、漢字本来の姿をしるのにわざわざ旧字にもどらねばならず、教育漢字がかえって本当の漢字教育の妨げとなっているのは皮肉なことです。(p33)

現代常用漢字のように、犬の嗅覚を基本として創作された<臭>の一画を減じて(〈犬〉を〈大〉と別字にして)<臭>と改悪し、学校教育の現場で学習させる滅茶苦茶流よりはるかにシステムが整っています。教育漢字は簡略とはまったく本質が違います。〈生〉の場合と同列に扱うことはできません。〈者〉や〈類〉など、現代常用漢字の多くは、決定的な一点を省略した、誤字ならぬ出鱈目の字形、字体です。慣習も構成も無視して何の根拠もなく作られたものです。審議会の無識なる面々は、自らの思いつきで作った字を、子どもたちに学べと強いているわけです。ある意味では秦の始皇帝以上の暴挙です。

漢字という記号の性格や構造を説明するときには、必ず異形をいくつか示し、それによって漢字文化、文字の機能、古典の中の表現や思想を支えるものの姿を正しくとらえさせねばなりません。一つの漢字を何十回と書き取りさせるだけが漢字教育というのでは、あまりにお粗末ですし、いたずらにただ一つの〈正しい〉漢字をおしつけるのは危険なことでもあります。わたくしの考えでは、将来を見すえるとき、教育漢字、教科書字体などは廃したほうが賢明だと思っています。わざわざ、社会的に認められている文字に、さらに無用な教育漢字を学習させ、かえって役たたずの負担を与えるのは愚策です。もっと広く、変化に富む漢字の世界、日本人の漢字活用の実態を授業の一環として教えるべきだと思います。しばしば引用する『倭楷正訛』なども、これは江戸中期の漢学者、太宰春台がいわば庶民の漢字教育のために編んだテキストですが、〈穐、妖、秋〉と、三字体を取りあげています。当時の漢字教育のよさでしょう。現代のように<秋>一色ではないのです。(p218)

また右の字書にはもう一つ、おもしろい註記があります。学校教育で習う〈国〉について、〈教育漢字は俗字の国に点を加えたもの〉というのです。この言い方ですと、〈国〉以前に〈国〉が存在し、それに誰か?が一点加えて〈国〉にしたということになりますし、生みの親が俗字であるというなら、教育漢字の〈国〉はそれよりもさらに氏素性の卑しい漢字ということになってしまうではありませんか。とても教育の現場にふさわしい文字とはいえないのではないでしょうか。〈教育漢字〉とは率直にいって、文字ではないのです。歴史性も普遍性もない文字、いわば勝手に作られた出生不明の記号にすぎないのです。一個人が勝手に文字の字形をゆがめることは許されません。現代の漢和字典の編者は専門学者として、もっと国に対して真の漢字のあり方をのべるべきなのです。学校文法が文法ではない批判する言語学者の率直な意見を参照すべきだと思うのです。一点を加えたという犯人?にも、大いに反省してもらいたいものです。(p234)