「黒歴史」とか言っておきながらグダグダと

誰かさん(あるかさん)は自分とは違ふ考へ方・感じ方があることを(その可能性すら)想像できないらしい。前段での主張が後段への反論になるやうな矛盾したことを平気で書いてゐるのも笑へる。その間抜けぶりを一往きちんと指摘しておく。
ゴミは掃除しないと落ち着けないから。
「外灯都市」の記事。以下の文中では「外灯1」「外灯続き」のやうに呼ぶ。

となると、〈旧字体〉の活字を読んで育った世代の人は、現在の〈新字体〉の活字におなじような違和感をかんじているはずで、そういう人が〈正字体〉〈旧字体〉にこだわるのは、それはそれでわかる気がします。
 でも、それが現在でも〈正字〉を使う人がいる理由なのでしょうか?
 〈旧字〉で育った世代というのは1949年に16,7歳だった世代ぐらいとみても、現在70歳はこえている計算で、どうもそれより若い世代でも〈正字〉を使っている人もいるようです。
 いったいなんで〈正字〉なんか使うんでしょう。
 いまだに科挙の権威を信じている超権威主義者なんでしょうか? そんな人がほんとうにいるんでしょうか?
 となると、たんにデザインが気に入っているから……ぐらいしか理由は思いつきません。案外そんなところが真実なんじゃないでしょうか。たんに難しい漢字が好きだ……ぐらいの。

白状すればぼくは白川静の本を読んだときに、〈新字〉より〈旧字〉のほうがずっと優れてると思いました。氏は〈旧字〉から〈新字〉への改訂を文化破壊と呼んでいる派です。氏の著作、たとえば入手しやすいところで入門者向けの字書『常用字解』などを見れば〈新字〉より〈旧字〉のほうが優れていることは一目瞭然であり、入門者向けでない字書は素晴らしい大系になっています。

上が「外灯1」、下が「外灯続き3」。若い世代なのに旧字なんか使うのは白川静(など)の影響かも知れない、と何故考へなかったのか。まさか白川説を知ってゐたといふのは嘘か。まさか白川説を理解できるのは自分ぐらゐ頭がいい者だけだ、なんて考へたのか(特に専門家向けでもない市販されてる本なのに?)。
それと、

正字体〉はある程度の知識人が、特別な場合に使うものとして存在すればいいし、文字の系統なんて研究者が扱うものであり、知識としてあればいいんじゃないでしょうか。

入門者向けの字書『常用字解』を見ただけでも素晴らしさの一端は一目稜線なんぢゃなかったのか。まさか自分がある程度の知識人だとでも妄想してゐるのか。

しかし、そこまで〈旧字〉に慣れることが良いことだと単純に言えるのかどうかもわかりません。
 というのは、塚本邦雄など〈正字体〉〈旧字〉にこだわる詩人・作家は何人かいますが、彼らがなぜ〈正字体〉で書くかという理由の一つは、まさに〈正字体〉が与える違和感を利用して、文を透明で意味内容を伝えるだけのものにするのを拒否し、内容より文そのものに注目させることにあるとも思われるからです。〈正字体〉も〈新字〉と同じように透明なものとして読めてしまうということは、こういった表現が理解できなくなるということにもつながります。

「外灯続き」より。常識的に考へて、1920年生れの塚本邦雄そこまで〈旧字〉に慣れてゐたと思はれるが、その人がまさに〈正字体〉が与える違和感を利用してなんてことが出来るのか。旧字に慣れてしまふとこういった表現が理解できなくなるということにもつながるはずなのに??? 塚本は特別に「理解」できたわけか。こういった表現なんてものは旧字に慣れてない者が勝手に作者の意図を臆測しただけぢゃないのか。なぜ素直に「この人も〈新字〉より〈旧字〉のほうがずっと優れてると思って使ってるんだな」と思はないのか。

少なくとも、一般的には「新字」にしておいたほうが、文章表現の一つとして〈正字体〉で書くという手が使えるだけ、日本語の表現の幅も広がるというものではないでしょうか。

それでも〈新字〉を誰もが使用し慣れている現状で自分がわざわざ〈旧字〉を使うほどの意義を感じませんでしたし、まさか竹林さんのようないい加減な理由で〈旧字〉を使うような自己顕示欲まるだしの行為はぼくはしません。

上が「外灯続き」。下が「外灯続き3」。竹林さんとかいふ人がいい加減な理由で使ってゐるといふのは誰かさん(あるかさん)の誤読か曲読による中傷だ、と本人は抗議してるらしいが、それはともかく。誰かさん(あるかさん)のやうな、自分とは違ふ考へ方・感じ方があることを想像できない輩が旧字使用者を自己顕示欲まるだしと罵倒するやうな情況で、文章表現の一つとして〈正字体〉で書くという手が使えるなどとのんきなことが言へるのか。こんな明らかに矛盾することを本気で言ってるのか。と言ふより正気なのか。

さて、これで〈旧字〉にこだわる人の理由がまたわからなくなりました。「鳩笛雑記帳」には〈新字〉は体系的にみておかしい字が多く出来が悪いから〈旧字〉を使うんだとありましたが、〈旧字〉も正統ではないならなぜ〈旧字〉にこだわるんでしょうか。程度の差という問題なんでしょうか。

「外灯続き2」より。繰返しになるが白川静を本当に知ってゐたのか。それなら何故こだわる人の理由がまたわからなくなりましたなどと書くのか。
以上、ゴミ拾ひにも疲れたので終了。