「正しい」「美しい」「見識」「語感」「センス」「フィーリング」?

どうでも良いが自分が正しい日本語はいらないと思う理由は「意味さえ通じればそれで良い」「語感さえ良ければそれで良い」という大変適当な発想から来ているのだろう , あ〜たとえば「なんじゃあねェの?」と「え」を小文字にしたり .
そして自分は文章は読み上げる物なので読みにくい文章なんざ書かなくて良いじゃんという思想があるんじゃあないかとおもう .

自分の考へ方を分析してゐるだけなので、他人の意見とかは求めてゐないだらうけども。

要するに、「「文部省御用達の正しい日本語」を盲信して他人にも押しつける奴ってイヤよねえ」(「よねェ」かな?)といふほどのことで、杓子定規な基準は拒否する、といふ単純な(まともな)ことなんだらうけど、それを正しい日本語はいらないと思うと表現するのはどうかと思ふ。
単純な話、それなりに「正しい日本語」の価値を認めてゐないのならば、誤字脱字を誰も指摘してくれないのは悲しい(三時十一分)と言ふこともあり得ないだらう。
本当に大変適当な発想ならば、「なんじゃあねェの?」と「え」を小文字にする積極的な理由にはならないだらうから(意味さえ通じればそれで良いなら「〜ねえの?」でも通じる)、自分にとっては大事な基準だが、理論武装大変適当だ、といふことだらう。「語感の良さ」を求めるのは一つの見識(と呼ぶのが重ければセンス)で、実は「正しい日本語」を大事にするのとも近いと思ふ。

それと、読みにくい文章なんざ書かなくて良いじゃんについては具体的にどういふことか分らないので賛成か反対か決められないけども、文章は読み上げる物なのでといふのは偏ってゐる。読みを知らないけど文脈からその言葉の意味はしっかり分るとか、何度も目にして意味もよく分るけどその漢字の読みは知らない場合とかがある。まあ、自分が書く時に読み上げにくい文章・文体を避けるために「文章は読み上げる物だ」と自分に言ひ聞かせるといふことなら、それは一つの見識だけど。