「正かな入門」のためのメモ

前々から「正かな入門のすすめ」みたいなものを書きたいと思ってゐたが、まとまった文章を書かうと思ふとなかなか取りかかれない。
そんなわけでこれからは思ひついたことを短くてもいいから「メモ」としておいて、いづれはまとめるといふことにしようと思ふ。

すでに他のサイトで色々と批判されてゐるやうだが、いちおう自分なりに思ったことを書いておく。

つかなんで疑問に思っているかはどのへんが正字正かなの素晴らしいところなんだろう ,
取りあえず検索してみるかな .

うっかり見過ごしてしまふところだったが、実は一連の記事の中で最も(悪い意味で)衝撃的な文なのではないだらうか。
相手の基本的な主張を少しも理解せずに反論(みたいなもの)や批判(みたいなもの)を書いてゐたなんて。
いくら空気を吐くようにネタを記述することを目指しているといってもあまりにもひどすぎやしないか。
これも此處が態々讀者が困惑してしまうようなことを屡々スルのはただの趣味ですといふ姿勢の現れなんだらうか。
『みんなが幸せになる/ある程度合理化』を目指してゐる人がなぜこんな迷惑なことをするんだらうね。

一応云っておくが自分は『過去が嫌い』なんじゃあない ,
過去だろうが未来だろうが , 『合理的/役に立つ』 物は使う.

それならば、合理的正字正かなも使ふといいよ。もっとも「合理的」の意味するものが違ふのかも知れないけど。

此処で言いたいのだけど自分は『みんなが幸せになる/ある程度合理化』を目指しています ,
過去への固執で改革を起こすのは難しいでしょう

あと何故伝統を守らなければならないのか ? 因みに過去へのスタンスは
過去を踏み台にして上に上る

自問自答なんだらうか。「踏み台が無いと困るから、守らなければならないのだ」と。
だとすると前の主張(過去への固執云々)と完全に矛盾するのだが、どういふつもりなんだらう。


上の文をパクって反論するならば、
「ここで言ひたいのだけれど(自分が理解する限りでは)正字正かな派は『ある程度多くの人達が幸せになる/かなりの程度の合理化』を目指してゐるやうです。「国語改革」といふ過去への固執現状追認では改革を起こすのは難しいでせう。」
といふことになる。


読んでくれるかどうか分らないが、自分の考へをまとめる役にも立つことだし、どのへん正かなの素晴らしいところなのか少し書いてみよう(実は正かなが素晴らしいと言ふより新かなが駄目すぎるといふだけのことなんだが)。正字についてはまたいつか。
単純にまとめると、「書き分けの復活」といふことになる。新かなでは同音語の「書き分け」を廃止したので語の形が似てしまひ、別の系統の語を別の語と意識しにくい。、「書き分け」を復活させると別の語を別の語と意識するのに役立つ。
以下、具体例。

  • イ音の「書き分け」(い・ひ・ゐ)
    • /高 など
    • る など
    • 悔いる など(「違い→違ひ」と変へることで「い」が際立ちヤ行の語だと意識できる)
  • エ音の「書き分け」(え・へ・ゑ)
    • る/冷る など(「冷える」がヤ行の語と分り、「冷やす←→冷える」の体系を意識できる)
  • 「じ」と「ぢ」
    • る/信る など(和語と「〜する」型の語)
    • ぢしん(地震) など(「土地」などの「ち」との体系を意識)
  • 「づ」
    • いなま など(「稲妻」を「〜ま」とするのは変ではないか)

取り敢へず今思ひつく(思ひ出せる)のはこの程度。
詳しくは舩木直人さんの正字正假名遣ひの爲のリンク集(一覧)などを参照のこと。