「アキテという他動詞」は変なのではないか、といふ疑問。


目がアクと言えば自動詞でこれは四段、目ヲアケルの意の目ヲアクは他動詞の下二段(だから、目ヲアケテとなる。)であり、この他動詞を四段にして目ヲアキテと活用させるのは、どうも無理な用法ではないかと考える。断定的に言えないが、古典にはこういう用例は見えないのではないか。勿論自動詞、他動詞が時に交錯する例もないことはない。「命を終ふ」と言わないで「命を終る」などと言うのは、その一例である。もっともこれは近代短歌に見えるので、古典にはあるまい。


なぜ「目をあけて」よりも「目をあきて」というほうを好んだか。それは恐らく「目をあきて」が、古風にひびくからであろう。近代歌人は「触れて」と言わずに「触りて」と言い「垂れて」とせずに「垂りて」とする。「揺れて」でなく「揺りて」と言う。これらは普段使う下二段を避けて古代語の四段活用をあえて用いたのだ。古代語志向である。それと同類の心理が働いて「目をあきて」という形を作ったのではないか。(「あきて」は、目以外には使用していないのではないかと思う。)