孔子の言つた事とされてゐる『論語』は、これは何うも、讀み手の解釋で何うとでも讀めるのであつて、そこで「偉大な孔子樣」が言つたと云ふ事で、立派な内容として讀まうとする傾向が「ある」やうに思はれる。


けれども、さうやつて成立してゐる「偉大な孔子」に對して、俺の印象では孔子が何うも本當に偉大な人物だとは思はれない。確かに立派な人物である面もあるけれども、どちらかと言ふと「人間的である」「人間らしい」人物と云ふ印象が強く、


けれども、孔子樣の方は、傳はつてゐる言葉が何うにも斷片的だし、何うも孔子自身が、東洋人らしい曖昧さを以て弟子たちに「何か」を「教へよう」としたらしき氣配すらあつて、現代人の俺には逆に何うも教はつても仕方がないのでないかと云ふ、これもまた根據の無い氣分としての感覺がある。讀んでも何かを新たに學べるものとも思はれないと、さう云ふ事だ。知つてゐる筈の事をもつたいぶつた樣子でそつと示唆されるに過ぎない――さう思ふやうになつて最近、何うにも孔子樣には魅力を感じられなくなつた。

断片的なので「解釈次第」といふのは確かにその通りかもな、と思ひつつ論語ファンとしては少々残念でもある。
久々に論語を読み返してみる気になった。