『輸入学問の功罪…』=鈴木直・著

 鈴木氏は、『資本論』の訳者として知られる高畠素之の訳業への言及から、本書を始める。高畠は、日本で最も初期の『資本論』の全訳を刊行した人物で、それだけでも、当時のさまざまな状況を考えると、大変な業績であるが、自分の訳に満足せず、さらなる改訳版を刊行した(新潮社)。鈴木氏は、二十年以上後に出版され、その後一つの決定版として流通することになる岩波文庫版(訳者は向坂逸郎)と、改訂版の高畠訳とを比較しながら、文庫版が、ドイツ語の原文により「忠実」であること、しかし、それが必ずしも「正確」であることを意味せず、かえって、理解を妨げ、読者を離反させることになっていることを、ドイツ語と日本語の言語習慣を土台にしながら、丹念に立証しようとする。その上で、高畠の姿勢のなかに、翻訳を「商品」として扱おうとする強い動機を読み取る。「誰に読んで貰うか」、「誰を購買する人として見定めるか」。原著と格闘する学徒か、はたまた、一般の「消費者」と目される人々か。『資本論』のマルクスは、一般の労働者階級に読んで貰う意図を持って書いたのではなかったか。そこから、日本語として「判(わか)り易い」訳が望ましい、という帰結が生じる。

しかし全体として、高畠に準じて、翻訳が「商品」としての価値を問われるべきであるのに、学問という名目に隠れて、そうした主張の正当性に目をつぶってきた人文系の学者の怠慢を、自省も含めて強く意識させる著書となった。ただ冒頭に挙げた第二の点について、鈴木氏がどのように考えられるか(その答えの一部は、最近判り易い訳として評判の高い長谷川宏氏の『精神現象学』への批判のなかにあるようにも思われるが)、じっくり聞いてみたいと思う。