「中二病議論」の治療法

中二病議論の半分くらいは「文章に適切な主語を入れてみる」という対処療法で治癒できることが多い…というのが、中二病患者の先輩としての私の説。

まとめ:
あいまいな中二病問題を与えられたら、言葉を適当に補って、問題の多義性を解消せよ。

大いに納得。
この治療法で重要なのは、「社会の役に立つ」といふ観点を出すことで「患者」の「質問」が視野の狭いものであったと自分で気づかせることなのだと思ふ。直接の答ならばcase3やcase4だけでいいのだが、「患者」は「この自分のためになりさうもない」(case3やcase4)ことを「因数分解なんて意味がない」(case1やcase2と紛らはしい表現)と短絡させてしまってゐる。その考へ方が「病気」なのだから、それに気づかせるcase1やcase2の方が直接の答よりも大事だ。

この手法は、例へば「正しい日本語なんてことを口にするような奴は頭に蛆がわいているんだ」などと決めつけるやうな「患者」だか「子供」だかを治療するときにも使へさうだ。
この手の「子供」は、例へば「幼稚園児の頃から特に学習するまでもなく日本語を喋れたんだからいいじゃん」とか「意味さえ通ればどんな日本語でもいいと思うけど」のやうなことを言ふ。それはその限りでは一往その通りなのだが、「正しい日本語」といふ観念を全否定するのはやはり病気だらう。
そもそも、「意味さへ通ればいい」とは言っても正しくなければろくに意味が通じないはずなのだが、これはまあ「単に通じる以上に正しさを求める態度」とでも好意的に読み替へてやるべきか。
単純な話、より正しい方がスムーズに違和感なく通じる場合が多いだらう。つまり「意味が通じる」といふ価値基準だけで考へても「正しさ」を求める態度はそれなりに支持されるはずだ。
「社会のため」といふ視野で考へるなら(この前「みんなが幸せ」といふ表現をどこやらで見かけた)、自分が興味ないからといって「正しい日本語なんて考へるな」といふやうな独裁的な態度はすべきではないだらう(これは「社会のため」)。自分が興味ないとしても、そのやうな価値基準があることだけは認めた方がいい。さういふ価値基準に意味があるかも知れないと考へることで視野を広く保てるはずである(これは「自分のため」)。